『人間の条件』ハンナ・ アレント著 志水 速雄訳を読む。
この本でハンナ・アレントは、「労働」と「仕事」を分けている。
訳者解説によると
「「労働」が消費と結びつき、人間の肉体的生命の維持に専心する「活動力」だとすれば、「仕事」は消費に抵抗し、人間の固体の生命を超えて存続する「世界」(world)の物をつくりだす」
「「世界」というのは、-一部略-人間が固体の生命を超えて存続するように作った
「人間の工作物(humana rtificial)全体を指す」」
本文からの引用。
「<労働する動物>は生命過程の反復的なサイクルに閉じ込められ、労働と消費の必要に永久に従属するという苦境に立たされている。彼がそこから救われるのは、ただ他の人間能力、すなわち、作り、製作し、生産する<工作人>の能力を動員することによってである」
このあと、<工作人>になれたとしても、「反復的なサイクル」から逃れるのは困難であると。アレント独特のタームであるんだけど、指摘していることは、あり!
「労働」とは喰うため、賃金を得るための汗や費やした時間との代償であって、「仕事」は、やりがいや生きがい、人としてよろこびを感じる行為である。って詭弁かなあ。
「食べる」んじゃない、「味わう」んだ。とか、いう手合のような。でもなあ、そういう幸せな人って随分と減ったような気がする。当世風にいうならば、QOLと近似値なのではないだろうか。なんかぼく自身、割り切れないものを感じる。まあ、未消化ってことなんだろ。誰でもできる仕事じゃなくて、当人でなければできない仕事。プロ、職人、そういう人。フリーターと対極軸に位置している人。
搾取されて疎外されて、それじゃ救いがなくて組合に入って階級闘争して革命しようってのが、労働者のイメージ。我ながら、すっごく、ステロタイプ。仕事する人は、仕事人。おいおい、それじゃ、中村主命が出てくるのか。
で、もっとこじつけるなら、労働者には定年があるが、職人にはない。労働者は長時間労働、それもサービス残業だったりしたら、苛酷だが、与えられた自分の仕事を全うしようとする職人は長時間労働もさほど苦にはならないだろう。
ぼくの場合、コピーライターとかライターって「労働」なのか「仕事」なのかを振り返ってみると、前者のものが圧倒的に多い。それが現実。
仮に「仕事」だとしても、「人間の固体の生命を超えて存続する「世界」(world)の物をつくりだす」なんてこたあ、ないない。消費社会のお先棒を担いでいるわけだから。