『負ける建築』隈研吾著、読了。
いやあ、おもろかった。作者は『新・建築入門』を読んで、
ぶっとんで、以来、建物、書き物、発言に注目している。
「勝ち誇る建築ではなく、地べたにはいつくばり、様々な外力を受け入れながら、
しかも明るい建築というのがありえるのではないか」
のくだりって、同じ「負け」つながりで酒井順子の『負け犬の遠吠え』に通じるものがある。
ほかにもひっかかったところをつらつらと挙げてみると。
アメリカの住宅。長期にローンを組んで郊外に家を建てると、
人々は、自然と保守的になり。国家にとって管理すること、この上なくラクだとか。
バブル時代は円高のせいで、海外の建築家が国内の建築家とさして変わらぬギャラで
仕事を依頼することができた。
さらに広告代理店がからんできて、中でも不動産に特化した広告代理店は、
ロケーションはもとより分譲マンションだったら、その価格設定まで算出した。
これは、ぼくも知っているところ。なんたってコピーライターが不動産鑑定士の資格を持っているとか、ウワサ。ゼネコンは丸投げしちゃうよね。
で、建築家は広告代理店からオファーを受ける。変といえば変だけど。
住まいが大量生産され、なんだか工業製品にカテゴライズされようとしたが、
住まいは完成して施主に渡されたときがゴールではなく、そこからがスタートなのに。
ひと昔前の住まいは大工の棟梁にできてからも、
あちこちのメンテナンスやリフォームを頼んでいた。
それとそれまでの建築家は文字通り「勝ち誇る建築」をしてきた。
そこに風穴を開けたのが、プロボクサーあがりの安藤忠夫だと。
ニッチビジネスといえばそれまでだか、安藤は安藤印、ブランドでのしあがってきた、
安藤忠夫プランド説も納得できた。
「施主と設計者」の関係を性風俗のお店へ来る客と風俗嬢に見立てたあたりも慧眼。
建築家とてホスピタリティを基本にしたサービス産業なんだと。
「いかなる形にも固定化されようのないもの。中心も境界もなく、だらしなく、曖昧なもの.....あえてそれを建築と呼ぶ必要は、もはやないだろう。形からアプローチするのではなく具体的な工法や材料からアプローチして、その『だらしない』境地に到達できないものかと、今、だらだらと夢想している」
イーネ!
でも、いまや「負けない建築」になっていんじゃねと、やっかんでみる。