脱・家族の住宅

 

 

『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』上野千鶴子著を読む。

 

「住宅という『ハコ』と家族という『現実』がどうやらズレてきているらしい」。なのに、いまだに「nLDK」がデファクトスタンダードとなっている住まい。「nは家族から1を引いた数で個室の数を表します。nLDKとは、夫婦の寝室と子どもの数の寝室+共有スペース」のことをいう。この基本プランである「公団住宅の51C型」が導入されたのが、1951年。なんと半世紀もの間、変わっていない。

 

本書は社会学者である作者と建築家・山本理顕の対談を中心に住宅と家族について述べられている。建築家が「建てるまで」を問題としているのに対して、社会学者は「建ててから」を問題にしている。そのスタンスの違いがある時はぶつかったり、ある時は一致したりして飽きさせない。内容がかなり重複している箇所も多々あるが、好意的に解釈すれば、その繰り返しが作者のいわんとするところの理解を深めてくれる。

 

「家族という単位はもはや終わりつつある」のに、なぜ、当り前のようにリビングがあるのか。夫婦別室で寝ている夫婦がかなりの割合なのに、なぜ、寝室は夫婦を前提条件に設計されるのか。少子化、高齢化、シングル化が明らかに進行している中で、「シングルを基本にした人生と社会システムの構築が求められ」ているのに、最も対応が遅いのが、行政と住宅であると。

 

住宅は建築家にとって作品であり、それは生活者の意見の侵犯を許さない一種のサンクチュアリである。また、建築家及びそれを取り巻く御用建築ジャーナリズム、コンペ形式にしても、それを採択するクライアント(たとえば住宅公団など)側に、結局見る眼がなかったことも大きかったようだ。

 

「家族のコモンスペースは必要不可欠であるが、それはダイニングだけではない」と述べる山本は、「個室群住居」の可能性をさぐる。このネーミングがなにか独房のような冷たい印象を与えるが、徐々にではあるが、このコンセプトは浸透しつつあるようだ。

 

フェミニズムがいちばん対抗し、破壊しようとしてきたのは『家族は愛の共同体』という神話。公団住宅の鉄の扉は、臭いもののフタだった」

 

「家族は闇だ、家族というブラックボックスは、行動よりももっと危険な無法地帯かもしれない。これまでは、そこにずっとフタをしてきた。そのフタの内圧が高まって、もはや抑えきれない力が噴出して外にもれてきた」

 

その具体例として、アダルト・チルドレンドメスティック・バイオレンス、介護などをあげている。「家族を開く住宅」が、家族を束縛しているさまざまな重荷を解放してくれるのだと。さらに、「血縁でもなく地縁でもなく社縁(会社の縁のこと-註:引用者)でもない『選択縁』」に応える住居でなければならないと。

 

「選択縁」とは「新しいコミュニティ」であり、個人がそれぞれ年代・性別を超えて好きな人同士と暮らす生き方である。ちょっと前に流行った社会学用語でいえば「うす口の人間関係」なのだろう。

 

相変わらず勇ましい作者の口調だが、実に、問題の核心を突き、うまいことをいっている。同感せざるを得ない。

 

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