ノー・マンズ・ランド 閾(しきい) 敷居

 

 

『権力の空間/空間の権力  -個人と国家の<あいだ>を設計せよ-』山本 理顕著を読む。


『人間の条件』でハンナ・アレント古代ギリシアの都市(ポリス)についてふれている。そこには、「私的なるものと公的なるものとの間にある一種の無人地帯」があると。「ノー・マンズ・ランド(no man’s land)」の重要な役割やなぜ時代が進むと、それが住居に無くなったのか。建築家として次代の住まいと都市を提言している。

 

難しい部分もあるが、昨今の都市計画に足りないものや標準化された集合住宅の課題など興味深く読むことができた。箇条書きでランダムに述べてみる。

 

〇「古代ギリシアの家は男の利用する領域と女が利用する領域とに厳密に分けられていた」「女の領域は最もプライバシーの高い場所」「プライバシーという概念は、囲い込まれ、隔離されている状態を意味していた」「家事は奴隷の労働であった」
公な場所は家父長など男たちの空間。洋の東西を問わず、妻のことを「奥さん」とか「家内」とか呼ぶのは、ここに由来しているようだ。


〇「古代ギリシアの都市(ポリス)は家(オイコス)の集合体である」「公的領域と私的領域の中間にある空間が「閾(しきい)」である」「閾は敷居である。空間的な広がりをもった敷居という意味である」
ノー・マンズ・ランドを換言するならば、閾だと。


〇「閾はそこに住む人たちを「結びつけると同時に分け隔てる」ための建築的装置である」
作者は世界の集落を調査して名前こそ異なるが閾は設けられていたと。

〇「今私たちが住んでいる家は―略―単に家族の私生活の場所、―略―プライバシーを守るためだけの場所になっている」「プライバシーとは「なにものかを奪われている状態」」

〇「住宅は単にその内側で「人間の消費的生命過程(家事、育児、生殖)」を維持するための「機能」しか与えられていない」

〇「プライバシーとは「なにものかを奪われている状態」」
これに違和感を覚えた。作者はこう述べている。
「私たち自身がそれを意識しなくなっている。住宅の外側が管理空間であることを私たちは知っている。でも、その住宅の内側にいる人たちは自分たちが管理されているとは思わない。なぜ思わないのか」

〇労働者住宅の出現により「均一な管理社会の住人に、一方で親密な私生活の住人になったのである」「一つの住宅に一つの家族が住む」いわゆる核家族化のはじまりである。

〇「均一化、画一化された建築空間が画一化された社会をつくるのである」

〇「規格化・標準化されるということは、その建築はつくられる都市環境と無関係に規格化。標準化されるということである。その建築はどのような環境であったとしても、その環境を選ばずにつくることができるわけである。それは、場所の特性や歴史性あるいはその建築を利用する具体的な利用者の特性と共に設計された19世紀以前の様式建築の方法とは全く異なる方法だったのである」

箱もの行政とか。

〇「今でも「世界」は私たちのすぐ身近にある。標準化された官僚制的管理空間に対する空間である。私たち自身のための空間である。そしてそれは私たち自身の強い意志によって、未来に向けて構想され設計されなくてはならない空間なのである」

「官僚制的に標準化されている建築」か。

〇「都営住宅の設計者は最も安い設計料を入札(申告)した建築設計事務所が、ただ設計料が安いというそれだけの理由で選ばれる」「一円入札」には驚いた。

〇著者がコンペで選ばれた「住民と共に設計」する「町舎新築工事の設計」。ところが町長選挙で推進派の「町長が敗北」すると、「解体されてしまった」。裁判になったが、事態は何ら変わらなかった。

〇「建築は単に建築家の主体によってのみつくられるわけではない。地域社会の人々に承認されることによってつくられるのである。だからこそ長い時間に耐えてそこに存在しつづけることができるのである。地域社会の人々によって、地域社会を現存化させるものとしてそこに存在し続けることができるのである」

仮設住宅というが、ひょっとして現代の建築物はほとんどが仮設住宅なのではないだろうか。


子どもの頃、祖母の家で座敷の敷居を踏んだら叱られたことがある人は、すでに中高年者か。理由はネットから引用。

「敷居には世間と家、部屋と廊下などを隔てる結界(境界のこと)の役目があり、畳の縁にはお客様と主人を区別する結界の意味があります。 こうした結界を踏むことは空間様式を崩すことになるため、踏んではいけないのです。 敷居を踏むと磨り減ってしまいますし、家の建てつけが歪むこともあります」

前半部がこの本とリンクする。

allabout.co.jp


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