ずれ

社会 (思考のフロンティア)

社会 (思考のフロンティア)

昨日、PR誌の打ち合わせに自転車で行き、環七と駒沢通りで花粉でも余計に吸ったのか、
なんだか今日はよろしくない。
ネーミングの仕上げとPR誌の新コーナー企画とインタビュー候補の人選をする。
こういうときはほんとに検索エンジンは便利だ。
図書館へ行ったとき、追加でちょっと参考図書にあたろう。
元上司に続いて植木等が亡くなった。
元上司はかなりマジで日本一の無責任男・平均(たいらひとし 役名)を
尊敬していた節があった。


『社会』市野川容孝著の感想メモ。難しいんで、というよりも、
考えが拡散しているんで、ほんのさわりだけ。


「“social”“sozial”という言葉が、「社会的」という日本語に置換されるとき、
そこで何かが欠落するのだが、そのこと自体は気づかれず、さらに、この翻訳語
慣れ親しまれ、見知られたものになっていけばいくほど、このずれと屈折は一層、
見えにくくなっていく」

『ニッポンの小説』高橋源一郎著でも輸入された小説をニホン向けに加工貿易することが、
果たして適切だったのか否かと同じような視点から捉えられている。偶然なんだけど。
しかし、日本人が日本語で自分の伝えたいことがきちんと伝わるかというと、
そんなことはなくて。ましてや存在しなかった翻訳語を、考案してはめこむことは、
そりゃモレ・ムリ・ずれも当然至極。


この本で作者は、ルソー、デュルケームニーチェマルクスらの言説を取り上げ、
“social”“sozial”という言葉の本来意味していたもの、概念を丹念に洗い出す。


「社会」という言葉が凋落してその代わりに、対立軸として「リベラリズム」「ネオリベ
「正義」そして「社会」の代替として「公共」「厚生」「福祉」という言葉が
赤丸急上昇してきたのはなぜなのか。作者はこう記述している。

「(それは-筆者註)この「社会」を「社会主義」や「マルクス-レーニン主義」と
等置してきた当の人びとが、それらの瓦解を目の当たりにしながらも、
それらの何をどう否定し、批判すべきかをきちんと言葉にする作業を、不快であるがゆえに
自分で避けてきた、あるいは不快と思う人によって妨げられてきたからではなかろうか」


かつての「社会」、社会党の「社会」と、「公共」や「福祉」とはイコールなのだろうか。
ここらへんがぼく自身、不明なところ。今後の課題だな。
たぶん小さな政府を標榜し、原則自由競争の「リベラリズム」に対抗するのが、
本来の“social”であったのではないかと作者は述べている。
ネジれた双子のような現在の日本の二大政党では、対立軸が見出せず、あるとしても見えにくい。

−続く(予定)−

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