やりきれない

 

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

  • 作者:渋谷 望
  • 発売日: 2003/10/01
  • メディア: 単行本
 

 「魂の労働―ネオリベラリズムの権力論」渋谷望著を読んだ。よくまとまっていて、読みやすい。オツムのいい大学生または院生が書いたようなデキのいいレポート。が、読了直後の印象。あ、誉め言葉、これ、一応。ちょっと引用。

 

「国家が「退場」した後、いったい何が残るのか。あらゆるマクロ的な権力は消散し、われわれは幸福な「ポストモダン」や、退屈な「成熟した近代」の団塊へと移行したのだろうか。」

 

例の「小さな政府」、それまでの福祉など国が面倒みるという大きな政府がやりきれなくなって、民活分営化、企業でいうところのアウトソーシング地方自治体への権限や地方交付税の委譲など、企業でいうところの分社化、独立採算制。
聞えはいいけど、実際は、どうなのか。過渡期なのですべてが及第点ではないと見る人もいて当然だ。しかし、なあ。

 

「しかしここで重要なのは、リスク社会においては、リスクを人為的な努力で完全に抑圧し、否認することはできるというかつての幻想は捨てねばならないという認識である。換言すればリスクは原理的にコントロール不可能なのである」 

 

以前、ニュースでどっかの保育園で園児にミニサイズの催涙スプレーを携帯させ、
それがはずみでストッパーかなんかがはずれ、噴霧され、騒動となったそうだ。
変質者に出会う確率と催涙スプレーが誤作動する確率は、どちらが高いのか。

 

「現在、「自己責任」―「リスクを受け入れよ」―のスローガンとともに若者に向けられるメッセージは、明らかに矛盾したダブルバインドのメッセージである。それは一方で「自分の将来や老後を自分で備えよ」(=「国や企業に頼るな」)である。しかし同時に発せられるのは「あらゆる長期計画(=長期安定性)を放棄せよ」である」

 

 

まさしく、その通り。ネオリベラリズムお得意の「自己責任」なんだけど、いかに虫のいいものであるか。言葉の上じゃいいように思えるが、実際のところ、地金が見え出してきているのではないだろうか。少子化にしろ、年金制度にしろ、これじゃあなあ。
やみくもに「気合だ」とか「走れ!走れ!」とかいわない一昔前の無能な高校野球の監督とおんなじ。

 

「年齢は、階級、ジェンダーエスニシティと並んで、近代社会において、個人の社会的地位を表わす重要なカテゴリーであり、それゆえ社会的アイデンティティを形成するコアの一つであった。その大きな理由は、子供→大人→老人と-略-人の一生を段階的に区切り、それぞれの段階に位置する人々に、その段階に応じた役割を課すことを可能とする客観的な指標であったことにある」

 

「しかし、年齢規範を基礎付けていた近代的ライフコースの揺らぎによって、「若者」や「青年期」」の概念もいまや安定性を欠くものとなっている」

 

本業で黄金のセカンドエイジなんて原稿を書いたりしているが、
団塊の世代までなのだろうか、いわゆる勝ち逃げ、もらい逃げは。

この

「年齢カテゴリーとそれに基づくライフステージの溶解は、コントロール社会の徴候の一つとして理解することができる」

すなわち、かつてはゲバ棒をふるったり、「カウンター・カルチャーの発火点であった青年(若者)」の反骨心を去勢することに成功したと。「しかし、年齢に基づく敵対性はほんとうに消滅したのだろうか」と述べている作者にハゲ同。

年金不払いや非婚、非出産などは、カタチを変えた「敵体性」行為なんじゃないかな。
意識している、していないは別にして。

 

社会保障費の歯止めのない増大の原因であると同時に、労働者の実質上のサボタージュの口実ともなりうる<健康と病>の“二元論”を脱構築することを狙う健康戦略は、ポストフォーディズムの戦略に適合的であろう」

 

「病という状態に陥り、治療を求めることはもはや贅沢となりつつある。とすれば、人は病に陥る前に、日常から予防しなければならない。「ライフスタイルによる病」(生活習慣病)という新規な概念が浮上するのも、日常生活が病の予防的介入の場になるというこのコンテクストにおいてほかならない」

成人病が生活習慣病と名前が変わってメタボリック・シンドロームとかいわれるようになった。健康ブームは、衰える気配はまったくない。その裏で、病気になる権利、死ぬ権利を掠奪されようとしているとは。大きな権力の巧みさを感じてしまう。

 

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