カフカ、ゴンブローヴィッチ、『サラゴサ手稿』

 

 


『捜査・浴槽で発見された手記』スタニスワフ・レム著 久山宏一訳 芝田文乃訳を読む。『捜査』、『浴槽で発見された手記』は旧訳で読んだ。新訳は、読みやすく、訳者解説や註釈が、小説の理解を深めてくれる。


あらすじなどは、こちらのレビューで。

 

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『捜査』

 

訳者解説から引用。

 

「『捜査』の作者は、何よりも次のものが好きです―サイバネティックス文献を読むこと、スキー、お伽噺、レイモンド・チャンドラーのミステリ、シネマスコープの映画、ドストエフスキーゴンブローヴィッチ、外国旅行、機械仕掛けの玩具、そして不要なものを買うこと。さて嫌いなものは―列車、海、歴史小説、アスパラガス、伝統演劇」(『プシュクルイ』1958年698号<8月24日号>)    

 

スコットランド・ヤードのグレゴリー警部補のグレゴリーは、カフカの『変身』のグレゴリー・ザムザにちなんだものらしい。

 

〇墓地で起こる連続遺体消失事件。謎が謎を呼ぶが、結局、名探偵や名刑事は現れない。シス博士の事件に関するもっともらしいご考説ってなんだかTVのワイドショーに出て来るコメンテーターのようだ。                                                                                                                                                                                                                                         

『浴槽で発見された手記』

訳者解説から引用。

 

「『浴槽で発見された手記』という書名はヤン・ポトツキの小説『サラゴサ手稿』のもじり。―略―『浴槽で発見された手記』全体の枠組は『サラゴサ手稿』を踏襲している」

 

〇『サラゴサ手稿』(全三巻 岩波文庫)は、最後まで読了できず、積読本になっているが、ああそうなのかと。

 

〇『サラゴサ手稿』の「不思議な体験」譚に不条理さをアップデートさせたSF奇譚小説ってことになる。天王星から捜査隊が持ち込んだ最近により紙が消滅した地球。唯一残った手記に書かれたものは…。

 

〇作者は、ひょっとして読者を煙に巻こうと手替え品替え暗号をくり出す。真面目な読者は暗号を躍起になって読み解こうとするが、実は、それはフェイク(ペテン)暗号なのだから、解読できっこないはずなのだが。

 

〇暗号がキーとなっているが、今日日、ネットなどでさまざまなパスワードで苦労している現代人を皮肉っているのかも。

 

〇んで、この作品もカフカよりもむしろゴンブローヴィッチの影響があると。


SFとホラーについて『怪奇小説傑作集3 英米編3』ラヴクラフト他著の平井呈一の名解説を引用。

ラブクラフトのもっとも大きな業績は、わたくしはやはり、かれがクトゥルー神話というものを創案したことだと思っています」

「これはポオ以降のゴチック・トラディションの上に、さらにまた一つの新しい領域をひらいたものと見てさしつかえないとおもいます。このクトゥルー神話に基づいて、ラブクラフトはしきりとコスミック・ホラーというものを提唱していますが、じつはこのコスミック・ホラーがきっかけになって、今日のSFが誕生したともいえるのであります」

 

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遅れてきた青年

 

 


『劇画狂時代 「ヤングコミック」の神話』岡崎英生著を読む。

 

ヤングコミック』(以下ヤンコミ)創刊当時編集者だった作者が、封印を解いたクロニクル。と書いてみたとて、『ヤンコミ』って、どの年代まで知ってるんだろう。ぼくがリアルタイムでラーメン屋とかでペラペラやっていた頃は、『御用牙』や石井隆に人気があった。けど、作者にいわせれば、それはもう『ヤンコミ』じゃないって。

 

往年の『ヤンコミ』の看板漫画の見開きページが再録されていて、これがうれしい。

真崎守、上村一夫宮谷一彦。この三人が作品を発表していた頃が、『ヤンコミ』の黄金期だったとか。作者は、宮谷の担当編集者で、そのやりとりが、真実だけに、読ませる。たとえば、他誌には全力で投球したものを載せるが、『ヤンコミ』には手抜きのものを載せる。絵にこだわりすぎる余り、原稿を落としそうになる。挙句の果てに、入稿直前にアシスタントともども蒸発してしまうなど。漫画家と担当編集者のせめぎあい、いかに才能を引き出させるか、読者をドキリとさせる作品に仕上げるか。なんかこのへんの熱が、70年代だという気がする。

 

作者が原稿を受け取り、水道橋の歩道橋を歩いていると、駅方面が煙っている。それは催涙ガスだった。俗にいうお茶の水カルチェラタン闘争かよ! なんてくだりが、ゴダールしていて、やけにカッコよく見えてしまう。手塚漫画に対抗して生まれた劇画、劇画をメインにした青年コミック誌には憤懣やりかたのない憤りやエネルギーがあふれていた。時代とシンクロしていた先鋭的な劇画とそれを支持する読み手の、まさに蜜月時代だった。

 

この本を読むと、宮谷のピークは、ぼくが青年コミック誌を読み出す前だった。追体験でもいいから、まとめて読んでみたい。代々木の予備校に通っている頃、『少年チャンピオン』で宮谷の新連載がはじまり期待して読んだ。筋肉をグロテスクなまでに描きこむ絵は迫力を増していたが、ちょっとストーリーがあぶないと思ったら、しばらくして連載打ち切りになってしまった。

 

松浦寿輝あたりが好きな人なら、ゼッタイ、ハマる。そうなんだ、松浦の『巴』って、宮谷の漫画のようだし。

 

真崎守は、何か漫画で人生の教訓をタレているようなところやインチキ精神世界風なところやコマ割りなどに新しい手法を取り入れているようなところが気に食わなかった。周囲には、ファンがいっぱいいたが。

 

上村一夫は、もっとダメだった。生理的にあの絵が苦手だった。上手だ。それは認める。でも、古クサかった。大学時代、『同棲時代』をまだ夢中になって読んでいる女の子がいたけど、同じ同棲漫画なら林静一の『赤色エレジー』か安部慎一だぜいと心の中でつぶやいていた。

 

宮谷一彦の名前は知らなくとも、「はっぴいえんど」の『風町ろまん』の都電とメンバーのリアルなイラストレーションを描いた人と説明すれば、わかってもらえるかな。うまいよ、絵がほんとに。

 

ミュージシャンや役者だったら、年齢がキャリアになって、テクもついて、味になったりする。その点、漫画家の旬って短いよね。ほんとうに面白さが光っているなんて、一瞬で。ふと、そんなことを思った。

 

宮谷の『性蝕記』がたまらなく、読みたい。どなたか、お持ちでないでしょうか。

 

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失われし作家を求めて

 

 

『人類の深奥に秘められた記憶』モアメド・ムブガル・サール著  野崎 歓訳を読む。

 

引用と剽窃、パクリは紙一重。素晴らしい作品とてパクリ疑惑がかけられれば、作品はおろか、版元、作家まで命取りとなってしまう。

 

1938年、フランスで刊行された同郷・セネガルの作家、T.C.エリマンの『人でなしの迷宮』もそうだった。小さい頃セネガルの牧師に才能を認められ、フランス留学を叶えた、いわばエリート。


デビュー作は版元も傑作だと認めるが、やはり、パクリの箇所が気になって修正を求める。しかし受け入れないエリマン。

 

主人公ジェガーヌは作家の卵。レア本『人でなしの迷宮』を運よく手に入れ一読、深い感銘を受ける。長いこと行方不明となっているエリマンのその後の人生を知りたくて細い糸をたよりに調べ始める。

 

『人でなしの迷宮』を批判したレビューを書いた7人のうち、なんと6人が自殺したというあたりから、読むスピードがさらに速くなった。あ、ミステリーではないのでアフリカの黒魔術師に殺人を依頼したとか、結末で作家探偵ジェガーヌが真相を解明するという伏線回収はない、念のため。そのレビューも、そのまま再録(って虚構だけど)してあるなど、リアリティを出している。


さまざまな人の証言から、エリマンの人間像が浮き彫りになる。過去と現代の時制が交錯、、エリマンの行動を追って、セネガル、フランス、アルゼンチンなどへ。一時は、「黒いランボー」とまで称賛されたエリマン。放浪生活をしながらも、創作活動を続けていた。ノンフィクションだったっけと思わせるほど。

 

個人的にあっと思ったのは、アルゼンチンに渡ったエリマンが、ボルヘスゴンブローヴィッチと親交があったこと。特に、ゴンブローヴィッチナチスドイツが侵攻してきたポーランドからアルゼンチンに亡命した作家。『トランス=アトランティック』や『フェルディドゥルケ』は、シュールな笑いが好きな人に推薦。


訳者解説によるとエリマンのモデルがいたことを知る。「『暴力の義務』を書いたウオロゲム」だそうだ。かつて翻訳されていたというので、図書館の蔵書を検索したら、保存庫にあった。読みたい本が増える一方、読む書きのスピードは下がる一方。


エリマンほどでもないが、ジェガーヌも屈折した男。村上春樹を思わせるいまどきの若者らしいオシャレな生活スタイル。村上春樹が作家になったきっかけ(たぶん、神宮球場のヤクルト戦)を紹介しているし。いろんなタイプの女性との性行為も嗜むが、溺れることはない。時には溺れるが。ただただ、書くこと、良い作品を書くことに魂を奪われている。

 

小説のためなら悪魔に魂を売り渡してもいい。そんな作家の「業」を感じさせながらも、清新さにあふれたザ・文学って一作。

 

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暴力には「肯定的に見るべき暴力が、間違いなく存在する」

 

 

『死なないための暴力論』森元斎著を読む。

 

暴力はいけない。「暴力反対」と決まり文句のように言われているが。はてさて、「暴力反対」とはなんだろう。どんなことを意味しているのか。作者は考えを進める。

 

「完全なる「暴力反対」はマジで難しいということだ。―略―好むと好まざるとにかかわらず、人間は暴力にまみえているのだ。メルロー=ポンティという思想家は、「暴力は、我々が肉体を持った存在である限り、我々の宿命なのだ」とまで述べている」

 

暴力をこのように定義づけている。

 

「暴力とは、ある(あるいは複数の)出来事ないし存在者が、他のある(あるいは複数の)出来事ないし存在者に力を不当に行使することである。そして、ヒエラルキーの上位の諸存在が下位の諸存在に暴力を行使することは常態であり、下位の諸存在は不当にも暴力を行使されることが常態となる。そして、ヒエラルキーの下位の諸存在は攘夷の諸存在による暴力を妥当なものだと解釈して結果的にヒエラルキーを支えてしまう。ただし、上位の諸存在に対して抵抗という仕方で暴力を行使することもある」

 

具体例を挙げるなら、男性優位主義(マチズモ)からくるジェンダー不平等(男尊女卑とか男女間賃金格差とか議員や管理職の数)。厳しい年貢の取り立てに一揆を起こして代官に反抗する農民たち。これらは「構造的暴力」だそうだ。


「戦争のように劇的ではなく、静かにひっそりと、緩慢に行使される暴力」

 

フーコーの生政治か。

 

ガンディーの名言に「非暴力を用いることだけが、真の民主主義にいたる道なのです」というのがあるが、作者はそれを批判している。マンデラキング牧師、マルカムXらの「非暴力的抵抗」の違いを取り上げているが、おいおい、それって「非暴力」じゃないじゃん。やっぱ、暴力を振るわないと「フランス革命ロシア革命キューバ革命も」成功しなかったのでないかと。

 

「暴力には否定すべきものと肯定せざるをえないものがある」

ここね。

 

「汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」でも、そう見せて同時に相手の股間あたりをキックするってことかな。

 

それでも、まだ、あなたは「暴力反対」を支持するのだろうか。

 

「暴力はよくない」「これは暴力の一面にすぎない。国家や資本主義といったヒエラルキーの上位に従って暴力をふるうのか、それともそれらに対して自分や周囲の人々を守るために暴力を使うのか、私たちは暴力を大切に、慎重に、時にラディカルに扱うべきである。本書で紹介してきたように、肯定的に見るべき暴力が、間違いなく存在するのだから」

 

グレーバーの説から作者は「私たち誰もが持つ「潜在的な(暴)力」の道筋と可能性を」述べている。

 

「力は、ヒエラルキー上位に与するとき、下位にいる者を支配す、搾取する暴力として現れる。一方で、ヒエラルキー上位に抵抗するときには犯暴力としたあるいは下位同士が支え合うときには相互扶助とした現れる。そして、相互扶助は国家とは異なるコミュニティをつくりだす」


もっとも同意したところ。

「2023年に税収が過去一だった日本政府は、さらにカネ儲けを企んでいる。所得税の税率も世界のなかでもかなり高いのに、今後インボイスなるもので私たちの収入はさらに搾り取られ、タバコなどの贅沢品も値上がりしていく。その一方で、過去30年間の
平均年収は変わらず、実質下がっている。これは国家が無策が故の、民衆への暴力である」

 

税金は国のカツアゲか。

 

アナキズムというと栗原康のパンキッシュな文体が脳裏に浮かぶんだけど、著者の文体もなかなかのもので、これまでの著作を掘っていくつもり。

 

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面白いところもあるし、そうでないところもある。ためになるところもあるし、そうでないところもある。ピンとくるところもあるし、そうでないところもある

 

 

仕方なく鼻炎のカプセルを飲んで横になりながら『嗤う日本の「ナショナリズム」』北田暁大著を読む。

 

面白いところもあるし、そうでないところもある。ためになるところもあるし、そうでないところもある。ピンとくるところもあるし、そうでないところもある。

 

皮肉屋でありながら、『電車男』のようなくっさい純愛物語に共感する若者。そこにはアンチノミー(二律背反)があるという。論理的には矛盾しているが、それは「オレ的」には成り立っていると。糸井重里の「おいしい生活」、田中康夫の「なんとなくクリスタル」に見られる人それぞれが好きなものはすべて等価であるという発言と同じ範疇に括られる。

 

熱かった六十年代が赤軍派浅間山荘事件や一連の総括の名のもとでの集団リンチ殺人事件で幕が引かれ、七十年代はその反動でシラケややさしさと呼ばれ、ストレートではなく、ちょっと斜に構えたアイロニカルなスタンスがカッコいいとされる。島田雅彦のような物言いか。

 

気鋭の作者は、以降の新人類、おタクの出現からいまの若者たちの保守化、右傾化を分析していく。ますます島宇宙化しているが、内心みんなさびしんぼうなんだってさ。さて、読後の率直な感想は、なんかどっちつかず。アカデミックにするなら、もっと小難しくすりゃいいし、サブカルにするんだったら、もっと下世話にすりゃいいし。

 

頭のいい子の作文のようで、非のうちどころはないんだけど、欲求不満が残る読後感ってとこ。カゲキにすりゃ宮台がいるし、アカデミックにすりゃ大澤あたりとカブるか。
ここらへんが作者の位置取りなのかもしれないが。

 

糸井重里の戦略のうまさ、商才、そのあたりが欠落しているし、コピーライター糸井の日本語のうまさも書き足りない。ナンシー関は、どうなんだろ。誉めすぎという気がしないでもない。作者曰く2ちゃんねらーの教祖様なのだそうだが。


ナンシー関も糸井ズチルドレンの一人。かくいうぼくとて否定はできない。いまの仕事がそうなんだし、あきずに長いこと、やってる(やってた)わけだし。

 

まあ確かにナンシー関の消しゴム版画+毒舌コメントは鋭かった。ナンシー関いしいひさいちの漫画が消滅した『週刊文春』は、つまらなくなったもんなあ。

 

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ゴシック・ビルドゥングス・ロマン―ヴィクトリア・マッキャンドレスの生涯

 

 


『哀れなるものたち』 アラスター・グレイ著  高橋 和久訳を読む。

 

映画版『哀れなるものたち』(ヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン主演)を見てから、原作本を読む。

 

作者は、一風変わった装幀の古書を手に入れる。中身は天才外科医バクスターと彼の手術で蘇った女性の一生が綴られていた。というメタフィクションで展開する。

 

時は19世紀末、「ヴィクトリア朝後期」。場所はグラスゴー。女性が身投げした。監察医だったバクスターは、妊娠していた彼女の脳に、胎児の脳を移植、見事成功させる。身元不明の彼女。見た目は美しい大人の女性、でも知能は生まれたばかりの赤ん坊という逆「名探偵コナン」状態。バクスターは、当然、ジョン・ハンターをリスペクトしている。余談。


ベラと命名された彼女は旺盛な知識欲からか、日に日に知性が成長していく。ベラはバクスター「ゴッド」と呼んでいる。バクスターの友人であり後に助手になったマッキャンドルスと婚約する。

 

彼女はさらに知らない世界を知ろうと、悪徳弁護士ダンカンの誘いで何の躊躇もなしに、ヨーロッパ各地への旅に出る。案じる二人。名うてのプレイボーイ、ダンカンは途中でベラを捨てようと思ったが、彼女にすっかり魅了されてしまう。知識欲も旺盛だったが、性欲も旺盛だった、ベラ。

 

旅で出会った人々、光景は、いっそう彼女を成長させていった。しまいにはついていけなくなったダンカンは、文無しとなっても、ストーカーの如くつきまとう。心を病んだ彼は精神病院に収監される。

 

長い旅を終えて、晴れて二人は結婚となるが、そこに、待ったをかけたのが、夫というブレシントン将軍。詳しい経歴が紹介されている。これで一作、書けるほど。ベラの父親も。彼らは、「ヴィクトリア」と呼ぶが、彼女の記憶にはまったくない。

 

将軍は戦場ではヒーローだったかもしれないが、平場ではとんだDV野郎だった。まったく似ていないが、赤塚不二夫の漫画キャラ、やたら拳銃をぶっ放す本官さん(ピストルのおまわりさん)を想像した。

 

映画は3時間に及ぶ長尺で、よくできているが、それでも、もの足りなさを感じた身重のベラ(ヴィクトリア)が投身自殺した理由と医師になってからの人生の後半部分を、たっぷりと知ることができる。

 

メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』は、醜い怪物として蘇生した男が、産みの親ヴィクトル・フランケンシュタインへの恨みを描いているが、ベラは、ことの真相を知っても、バクスターへの恨みは抱かない。バクスターは罪の意識にさいなまれていたが。それどころか、同じ医学の道を志す。

 

ゴシック・ビルドゥングス・ロマン。なんのこっちゃ1?

 

現代の入口は「ヴィクトリア朝」にあったとフーコーは言うが、この本でも自由、平等、貧富、女性への偏見と差別などを深く考える。当時の知識人たちの会話で知ることができる。


手塚治虫の『ブラック・ジャック』とバクスターがなんとなくかぶるのは、顔面の縫合跡のせいかも。ブラック・ジャックが甦らせたピノコは、ベラのようにはならなかったが。

 

作者は美術学校出身なので絵も達者で表紙から各登場人物や器官など独特の絵を披露している。『堆塵館』などアイアマンガー三部作の作者エドワード・ケアリーを思い出した。


映画版『哀れなるものたち』の短い感想メモ

 

エマ・ストーンが赤ちゃんから幼児、ティーンエイジャー、知的なレディまでを見事に演じ分けている。

〇『哀れなるものたち』とは、男性のことかと思えるほど、男のいろんなダメさをつくづく感じさせられる。

ヴィクトリア朝ではポルノグラフィーが盛んになったが、スクリーンからその時代の気分が味わえる。

アールデコ、アールヌーヴォー、フュチュリズム、ガウディ、ギーガーあたりなどをベースにつくりあげた美術が豪華、素晴らしい。

アンビエント・ミュージック風だが、どこかズレや狂いを感じさせるサウンド・トラックがクセになる。

 

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いつだってもっと単純に生きられたら

 

 


『単純な生活』阿部昭著を読む。


いつか機会があったらこの本を取り上げてみたいと思っていた。小説が大量生産・大量消費される風潮が強い昨今、再読する本が書棚にある人は幸せだ。ぼくの場合は本書がその一冊である。

 

阿部昭は短編小説の名手として知られるが、平成元年54歳で急逝した。彼はTBS勤務時代に、文學界新人賞を受賞したが、そのデビュー作『子供部屋』以来一貫して家族、親・兄弟、生まれ育った湘南をテーマに作品を発表してきた。その佳作揃いの著作の中で(主なものは講談社文芸文庫で入手可―今は不可か)最も多くページを捲(めく)っているのが、本書である。

 

『単純な生活』は言うなれば身辺雑記、エッセーである。普段の生活から作者が感じとったものを掬(すく)い上げた短めの文章が全部で103、タペストリーのように書き綴られている。子供の成長、母の死、友人のこと、自分の病気など、誰もがごくごく見慣れた日常風景を淡い筆致で描いていく。劇的なことは何も起こらない。何も起こらないから、読み返す度にまた新たに好きな断片を発見する。一市井人(しせいじん)の静かな生き方に深く共鳴する。そしてその平明かつ自然な文体に魅了される。

 

単純とは何か。作者は、「複雑でないこと」、「裸」、この2点を挙げている。作者自身、単純な生活の実践者ではないことを明言した上で、「読者はわれわれはいつだってもっと単純に生きられたらという思いがあるのだということを思い出していただきたい。」(『断片三より一部引用』)と述べている。この件(くだり)は今の時代に、しっくりくるのではないだろうか。返す返す残念なのは、彼の新作がもう読めないことだ。存命であるならば、老いの心境などをどう書き記したのだろう。

 

特に仕事に、家庭に揺らぎがちな若い父親や母親に一読をお薦めしたい。意味もなく間延びした、たとえば2段組上下巻といった長編小説よりもきっと得るものが多い。精神安定剤として立派に機能するはずである。

 

昔、書いたレビューをアップ。

 

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