借りたのは、筑摩書房版チェーホフ全集の一冊なんだけど、テープどめしてある月報に書いてあった阿部昭のエッセーが、刺さった。
チェーホフの『農夫』という作品と私小説作家・葛西善蔵について書いている。
『農夫』の粗筋は、こうだ。地方の農家出身のニコライは、食い詰めて都会へ働きに出るが、病に罹り、働けなくなり、失業して、家族と帰郷する。しかし、「そこは貧窮と不潔と無知の巣窟」で、彼や家族の居場所はない。
「(主人公)ニコライは、厄介者扱いされて死に、遺された妻子は物乞いの姿で再びモスクワをめざす」
『農夫』の主人公に葛西は自分を見たようだ。
「都会と田舎とを、両者の接近と交流という観点から二つながら視野におさめ、相互の悲喜劇を骨身に染みて実感していた葛西善蔵は、チェーホフの読者としては同時代に一歩先んじていたようである」
秋葉原の無差別殺人事件などにもつながっている気がする。葛西も青森、津軽出身だし、永山則夫も。北文学論?と、いうのは深読み、浅読み?まるでアベカズの小説か三文クライムノベルのような25歳の青年の一人チャット状態のケータイ掲示板へのカキコミ。顔が悪いから、モテない。などの文章は、ぼくの中学生の頃を思い出し、辟易してしまう。世代、ハケン制度からお決まりの格差社会まで解釈はいろいろ。
だからといって、葛西善蔵が小説を発表していた頃や石川啄木がローマ字日記を綴っていた頃とは違う。
時代が逆行しているわけじゃない。似ているかもしれないが、まったく同じじゃない。昔は昔。ただ喰えなかった時代よりも経済的にはマシなのに、寂寥感や空虚さ、疎外感がいっそう増している感じがするのは、なぜなのだろう。
そこにチェーホフ的なものを感じる。
