『なぜ人は自分を責めてしまうのか』信田さよ子著を読む。
コロナ禍、対面がタブー視され、居酒屋などは経営の維持にナンギした。著者が主催しているカウンセリングセンターも基本が対面なので、どーする。となった。オンライン講座を開いて、乗り切った。この本は、そのオンライン講座をテキスト化したもの。「自責感」をメインに「共依存」「母と娘」「育児」などのテーマで著者の考えがわかりやすく語られている。
気になったところの引用と感想を、ダラダラと。
「母と娘は和解できない」「しかも残念なことに、母の年齢が上がれば上がるほど、母と決別する娘に対して、世間や常識は「人間じゃない」という扱いをするんです」
「母と娘は和解できない」。ショッキングかもしれないが、そう思ってみると楽になる。
「なぜ、母親研究が必要なのか。それは、やっぱり、距離をとるためです」「母を俯瞰する」「自己洞察というより、他者=親を洞察するっていうことかもしれない」
著者の本で知った「共依存」について。
「共依存を権力と支配の文脈でとらえる」
「共依存」という語感から「持ちつ持たれつ」をイメージするが、実際のところは、マウンティングだと。
「共依存の三つの支配のかたち」
「1.ケアや愛情によって、相手を弱者化することによる支配
2.相手にとってかけがえのない、交換不能な存在になることによる支配
3.女性にとって最も適応的な支配」
「なぜ他者をケアすることが気持ちいいのか」「それは、相手を弱者化できますし、自分は強者の立場になるからです」
たとえば、高齢者施設で、いうことをきかない入居者をヘルパーが殺してしまうのも、そこからきているのか。
「血のつながった親子や母性愛、家父長制は明治維新以後」につくられたとか。
「妊娠しなければ駄目、実子を産まなきゃ駄目となり、血縁重視、「血のつながった」家族礼讃、不妊の人が差別されるようになるんですね」
これも目からウロコ。なのに、なぜ、夫婦別姓とかはいまだに法制化が進まないのだろうか。
「母性愛なんてものはない」
強烈なパンチライン。人間愛ならあるのか。って、なんだか言い回しの違いだけかもしれないが。
「母の愛=無償の愛」も明治以降につくられたものなのだと。
「親子の問題は、親子だけ、まして母と子の二者だけでは、私はもう絶望的だと思う。そこには、第三者の介入がなくてはいけない」
「最良の第三者は、本来は父であるべきなんです」
ところが、
「家族のむずかしいことからは責任逃れをして、そのくせ自分は犠牲者ぶった顔をして、なおかつ既得権益は手離さない。こういうやり方が日本の父権主義です」
「罪悪感を母と子だけの物語にしてはいけない。ケアをしてこなかった父親たちにも責任がある」と。
耳が痛い。
父親が子どもに対する常套句「自立しろ!」これはこのように述べている。
医師、科学者である熊谷晋一郎の言葉を引用。
「自立とは依存先を増やすこと。「自立する」=「依存しない」ではない」
自立=孤立ではない。できないところは、遠慮なく他者に頼れと。
さらに
「人に迷惑をかけずに生きることはできない」
