ニートのプーさん、ニートのプータロー

 
 
昨今流行のニートよりもプータローやプーって言葉が似合うような世界。プーな若者を同情心で、ちょうど仔犬や仔猫でも拾うように救いの手を差し延べる女性。これは、作者の分身か。ダメ男だけがダメじゃなくて、そこに結局、依存したり、際限なく赦してしまう女性もダメ女。信田さよ子いうところの共依存関係。
 
最後の短編『愛なんかいらねー』は、小説に共感や感動を求める人の間じゃ、評判がよろしくないようだが、たいそうおもしろかった。「愛じゃない、愛」って肛門性愛やスカトロに走る、ムショ帰りのインテリ・ザセツ男。でも、それだって屈折してるけど愛のようなものなんじゃないか。落語の『饅頭こわい』のようにさ。
 
男と女が被害者・加害者とかってんじゃなくて、フィフティ・フィフティの関係が
どろどろしてなくていいのかも。あと、日活ロマンポルノあたりの良質なニオイも感じるんだけど、まだうまく言葉にならない。
 
かつて朝日新聞の夕刊で書評欄かなんかを降りることになった島田雅彦が、現在の小説トレンドを批判していたことを思い出した。。重松清角田光代の亜流の文体+等身大生活+若い書き手=若い読み手の共感、感動=売れる。こんな図式だったと記憶している。
 
別に文学が高尚なものである必要はまったくないけど、ただの共感や感動の大安売り(あるある文学)だけじゃあ、読みたくねえ。って、最近、ますますその傾向が強くなっているとは思う。
 
じゃあ絲山は、どうなんだって?単なる共感じゃない。そこには、毒とかオリとか灰汁(あく)とか苦みがある。生活破綻者キャラばっかのような気もするが、そうなる、ならないは、紙一重で。