裏『漫画道』―「少年老いやすく、ギャグなり難し」(by小林信彦)

 

 

『BS漫画夜話』で藤子不二夫Aの『漫画道』を取り上げた回があった。トキワ荘を舞台にした手塚治虫と若き漫画家たちの成長物語で、ここまで純だとかえってうらましいとも思える作品なのだが、その中で裏『漫画道』として取り上げていたのが、長谷邦夫の『漫画に愛を叫んだ男たち トキワ荘物語』だ。

こちらは主に盟友赤塚不二雄との出会いから別離まで書かれている。


作者の文体はなかなか硬質で、理系の人かと思わせるのだが、SFものでもあったのだ。

長谷は赤塚のブレーン、アイデアマンとして、また、プロデューサーとして黒子的な役割を果たしていた。雑誌でいえば、副編集長、会社でいえばNO.2の専務といったとこだろうか。労多くして功少ないポジジョンでもある。

 

あの一時代を築いた赤塚ギャグは、長谷や『ダメおやじ』の古谷光敏らのサポートがあってこそのものだった。長谷は調整能力やバランス感覚に長けていたのだろう。いい意味で常識人であったがゆえに、漫画家としては名を成すことはできなかった。違うだろうか。

 

個人的なことをいえば、長谷のパロディ漫画は、さほど面白いと思ったことはない。
書き溜めた未発表の小説があると睨んでいるのだが。

 

漫画界のみにとどまらず、星新一筒井康隆、SF同人誌『宇宙塵』同人とのつきあい、
かすかに覚えている絶頂期の赤塚が発刊した『マンガNO.1』。山下洋輔タモリなどなど、サブカルチャーのうねりの中にいた。目撃者(当事者でもあるが)ならではの作者の記述が、なかなか。井上陽水の『桜三月散歩道』の作詞もするなど多彩な人でもあった。

 

トキワ荘前時代前のつげ義春のことや永嶋慎二との交流。『COM』で連載中止となった石森正太郎の実験作『ジュン』。それは、手塚治虫のジェラシーによるものであることを改めて知ることとなった。

 

勃興しつつあった劇画や後年大友克洋に対してライバル視していた手塚。最後まで現役バリバリの漫画家だった。しかし、赤塚には、どうも手塚ほどの業の深さが感じられない。

 

しかし、ともかくギャグ漫画を描き続けるしんどさったらないだろう。赤塚ギャグは、新しかった。キャラクターたちも、斬新だった。左手で漫画を描いたものを載せたり、見開きでひとコマだったり、次々とあっといわせるギャグ漫画を世に問うてきた赤塚。

 

いくら天才とて、ギャグは古びる。アヴァンギャルドはメインストリームとなって、
新たなアヴァンギャルドへ人々はなびいていく。

 

会社の経理の使い込み発覚や赤塚の酒に溺れる日々、ぎくしゃくした人間関係から辞めていくスタッフ、フジオプロは、夏から秋へ、ゆっくりと沈みかけていく。

 

作者も書いていたが、赤塚本人が描いたギャグ漫画がまったく面白くないと。ぼくも、数年前か、雑誌で赤塚の漫画を読んで愕然としてしまったことがあった。厳密にいうと、すべてアシスタントまかせで、もう本人は漫画が描けなくなったのだろうかとも。

 

手塚治虫の死をきっかけに、長い青春が幕を閉じたことを感じ、作者は、新たなスタートを切ることを決意する。

 

「少年老いやすく、ギャグなり難し」(by小林信彦)という名言を締めの言葉として。
小林信彦の『夢の砦』にも似た読後感を覚えた。

 

付記

中学時代、仲の良かった友人は、ギャグ漫画を描いていた。見せてもらったが、赤塚そっくりだった。そのとき、ぼくは白土三平そっくりの忍者漫画を描いていた。

 

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