『創造性はどこからやってくるか―天然表現の世界』郡司ペギオ幸夫著を読む。
生命基礎論の研究者であり大学教授でもある著者が、アート作品を創るまでの過程と根底にある論考を記した本。
「こうして始まった私の制作は、生命のモデルであり、外部と付き合うための実践の方法である「天然知能」を、「天然表現」へと展開し、作品を「完全な不完全体」として制作することだった」
きっかけは、日本画家である中村恭子に東京藝術大学の博士論文の審査を依頼されたこと。
論文で興味を引いたところ。
「ランはメシベをメスバチに似せてオスバチを誘惑する。オスバチはみんながそれをメスバチと思って突進するわけではない。「違うような気もするが、とりあえずいっとくか」というか感じで、メスにちょっとだけ似たメシベに突進するのではないか」
「わかっているのに「とりあえずいっとく」行動には、よくわからない外部へ踏み込む積極性がある」
アートもそうだと。
作者は実家で父を介護し、看取る。すでに母は亡くなっていた。物のあふれた家。親のコレクションだったこけしを台所の床一面に並べる。さらに両親の衣服を丸めてつないで「胞子状構造体」をつくった。
実家にあった大量の段ボールを水につけ干す。乾いた段ボールを千切って丸め、段ボール・チューブ虫なる巨大なオブジェをつくる。「とりあえずいっとく」行動がアート方面へと作者を押し進めた。
それを中村恭子との二人展を開き、会場内に再現する。オブジェもしくはインスタレーション。「痕跡候補資格者」と名付けられた。異色の現代アート作家の誕生。
モノクロの小さな画像ではわかりにくいが、なかなかに面白いユニークなものだと思う。
「このままでは、我々は人工知能に置き換え可能で、「わたし」の尊厳を失うしかない。芸術家が外部に向けて打って出る賭けこそ、試行錯誤とは違う外部を召喚する装置となり得るに違いない。外部を受け入れる不完全さを身につけ、理解することでのみ、当事者性を理解し、当事者として、生きることの意味を回復できる」
最後に共感を覚えた著者の読書論を引用する。
「小説は外部から降りてくるものだ―略―ところが、そうではない。小説とは読み手の存在するものであり、読書体験とは、読み手が外部を召喚するための、召喚の儀式なのである。つまり読者もまた読書を通して、創造するのである。創造をうまく助けてくれる小説こそが、本当の小説なのであり、読書を体験として実現してくれる媒体なのである」
たとえば良いコンサートとは優れた演者のみならず良い聞き手との合作で生まれるといったことだろう。