- 作者: 小林道憲
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2015/02/09
- メディア: 単行本
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『芸術学事始め』小林道憲著を読んだ。
作者はこう述べる。
「<人はなぜ芸術するのか>、その表現衝動の源泉にも、
宇宙衝動とでも言うべきものがある。芸術は根源的生命から
現われ出てくる出来事であり、再創造であり、再現前化である。
芸術は、いわば命の輝きなのである」
「<人はなぜ芸術するのか>」この「芸術」に「アート」とルビを振りたい。
芸術家と職人は、丸っきり違うと思われがちだが、
芸術家を意味するartistと職人を意味するartisanは、
元々はartという言葉を源にしているそうだ。
「宇宙衝動」それは別名天啓、インスピレーション、ユーレカとも言う。
「芸術でも、技術でも、物をつくるということは、それ自身が
世界の自己形成の働きである。芸術的創作それ自身が、世界の
形成作用の一環の中にある」
パフォーマンスとアフォーダンスの連関性とでも言えばよいのだろうか。
作り手の私と世界が重ね書きされるのだ。
伝統と聞くとただテクニックや精神性を継承するだけではない。
ドーキンスの唱える文化の遺伝子ミームも
そこには多大に影響しているだろう。
ただし、つくる、クリエイトするのは、結局、私。
絵筆でもコンピュータでもない。
ベンヤミンはかつて大量複製時代の到来により
オリジナリティのもつアウラが喪失すると危惧したが、
たとえば、フランシス・ベーコンの作品をPC画面越しに画像で見る。
そして美術館で現物を見る場合の印象、感動に優劣はつけられないだろう。
リアルかヴァーチャルか。昔流行ったギャグで言うなら
「そんなのカンケーねー」ってこと。
作者は芸術は祝祭から生誕したと述べている。
「ハレとケ」も薄れてしまった日常生活。
もっとも渋谷のスクランブル交差点は
年中ハレの日状態だが。
ポストモダンの時代、袋小路に陥った現代芸術の行く末を
案ずることはないと。
ダダイズム全盛期にパフォーマンスアートは
すべて出尽くしたとかいうのを読んだことがあるが、
良し悪しは別にしてその手のアートは廃れることない。
大雑把に書くが、
基本ドレミファソラシドの順列・組み合わせの音楽だって
CDは売れなくなったが、聞かない日はない。
「子供の動きは宇宙と直結している。子供の戯れの中には
宇宙の命が宿っている。そして、そこに芸術の原点がある。
宇宙創造のより近くに住もうとしている芸術家が子供の表現に
親近感を持つのは、子供が宇宙創造のより近くに住んでいる
からであろう」
たぶん、これがブレイクスルーするためのヒント、処方箋。