『やってくる』郡司ペギオ幸夫著を読む。
一見ホラー小説のような題名。第一章は大学時代に住んだ元病棟のアパートの話。不思議な体験をする。そのあたりはホラー小説並み。ホラー小説好きならここだけ読んでも面白い。
以前は書くものが難解で、でも、ひきつけられるものがあり、わからないままに読んできた。最近ではわかりやすい文体になった。でも、いつものようによくわからないままに読んでいる。
もやもやしながら読んでいると、時おり、霧が晴れる瞬間がある。
エウレカ状態。つっても低レベルだけど。そのあたりをかいつまんで。
「本書の目的は、私たちが外部を呼び寄せて生きているということ、そうやってしか生きるということはあり得ないことを実感し、そこから「生を立て直す」ことにあります。日常的なリアリティこそ外部からやってくるものだと示唆されました。―略―デジャブのように外部がやってくるからこそ、現在は「このいま」となる」
「このいま」はハイデガーの言う「現存在」だろう。「外部がやってくる」の例で思い出すのが、セレンディピティ*だ。違うかな。
作者の唱える「天然知能の図式」で説明する。それによると
「「感じる」と「認識する」が矛盾したまま両立し、両者の関係によって外部を呼び寄せているのです」
「外部」は、一見非理路整然、一見非科学的世界。「懐疑や留保によって外部と接続できる」でもセレンディピティの女神は、それまでさんざん悩んで、苦しんだ人あるいは半分諦めかけた人に降臨してくる、やってくるのではないだろうか。
「本書の目的は、なんでも比較可能で数値化可能とする、等質化を前提とした思想、すなわち「人工知能の思想」に対抗し、外部から「やってくる」ことを全面展開することです。しかしそう言うと、機械vs自然であるとか、論理vs非論理という二項対立を思い浮かべ」、―略―さらに「いま流行のディープランニングを積み込んだ人工知能は、とっくにそういった二項対立を乗り越えている」とも言うでしょう」
「そのような主張はダブルスタンダードになっています」
「数値化」できないもの、「可視化」できないもの、そこに「真の想像がある」と。アガンベンの言を引用してこう述べている。
「真の創造とは、何を創造することが創造なのか、その「何か」が不明のまま、そこに向けるようにジャンプする行為である。つまり「何か」を創るというよりは、むしろ「何か」からどこかへ逸脱し続ける、という意味で脱創造なのです」
「脱創造」って「脱構築」や「止揚」と同義かな。and orが「併存する世界」だとか。
「世界にあるものを知覚するとは、「あるものではない可能性に開かれながらあるものと判別する」ことです。逆に、そういった留保のない判別は、閉じた一人よがりの決定にすぎず、世界と向き合う知覚になっていません。かくして外部を排除することは、知覚の核心を取り逃がすことになるのです」
*セレンディピティとは、「予測していなかった偶然によってもたらされた幸運」あるいは「幸運な偶然を手に入れる力」を意味します。2つの意味を含んで用いられることもあります。特に科学の世界において、大きな発見が偶然からもたらされることが多いため、科学者がよく用いる表現です。科学者が使う時のセレンディピティは、「予測していなかった偶然の幸運」という意味で使われますが、その根底に「幸運な偶然を手に入れる力」があることが暗黙知されているといえます。
「セレンディピティ」の意味と語源は?シンクロニシティとの違いも