『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史 -サブカルチャー雑誌がつくった若者共同体-』富永京子著を読む。
この本の惹句に「伝説的サブカルチャー雑誌『ビックリハウス』」と表記されていてビックラゲーションした。リアルタイムで読んでいたあなたやぼくは「伝説的サブカル野郎・サブカル女子」となるのだろうか。
この本で記憶が甦ったが、『ビックリハウス』、そもそもは渋谷のタウン誌だったのだ。そんなイメージは微塵もないが。
メインの購読者層は、「しらけ世代」「三無主義」とか「四無主義」とか、「新人類」とも呼ばれた世代。団塊の世代がゲバルトして焼け野原にした高校・大学に通う立場になれば、そりゃそうなるのが自然だろ。反面教師ってヤツ。インターネットなんてなかった。スマートフォンもなかった。情報はテレビやラジオ、雑誌・新聞からだった。
『ビックリハウス』の常連の投稿者をビックリハウサーと呼んでいた。「ビックラゲーション」、「御教訓カレンダー」、糸井重里主宰の「ヘンタイよいこ新聞」は人気だった。
「鶴見俊輔は、「ヘンタイよいこ新聞」が「広告板に自分の思いをぶつける一つの方法」であり、この広告板とは「大衆が大衆に対して感じ(プライヴェイト・メッセージを)つたえる場」だと説く。ここに鶴見は、大学闘争の敗北以後、若者の間に生じた感覚先行の営為という、「これまでの大学流の学習に対して健全な反動」を見る」
深夜放送のハガキ職人とかも、そうかな。
「書くことをもって農村共同体や家父長制からの解放」につながった「天野正子の生活綴り方運動」。
「『ビックリハウス』読者にとっては、自らの生活について自由に書くこと、政治的・社会的トピックをおちょくることが、既存の社会―強化される表現規制や「きれい事」ばかりの言論、政治性や対抗性抜きにサブカルチャーを享受すべきではないという風潮―彼らが率直に、あけすけに自分の思いを「書くこと」によって解放されようとしたのは、戦後日本社会に内在する規範性や教条主義からの「解放」だったのだ」
同じ「書くこと」で「天野正子の生活綴り方運動」と『ビックリハウス』を結びつけるのは、ちと強引かも。
「本書で示したとおり、政治性・対抗性の回避、連帯のもつ強制性へに忌避感はすでに『ビックリハウス』編集者らの多くを占める団塊世代にも見られ、そうした姿勢が若者共同体に共有されたのは直接的には世代的要因ではなく、むしろ共同体の参入手法である「パロディ」を通じてであった」
で、これが「若者の政治離れ」に繋がり、現在に至る。うーーむ。そうなんだろうか。
情報誌『ぴあ』の『はみだしYOUとPIA』や『宝島』の『VOW』なども、すっごく人気があった。『ビックリハウス』やラジオ番組「スネークマンショー」の「パロディ」は、小林信彦などギャグの大人から悪評噴飯だった。
ぼくは当時、小林信彦教の信者だったので、隠れキリシタンのように読んだり、聞いたりしていた。
批判ばっかじゃいけないなと、パルコとビックリハウス共同主催の「日本パロディ展=JPC展」に、イラストレーターの友人と組んで応募した。結果は、残念ながら純入選だった。モノクロページに作品と名前が小さく掲載された。
1974年に創刊された『ビックリハウス』は1985年に休刊となる。パソコン通信そしてインターネットの掲示板(スレッド)にとって代わられる。
後年半年ばかり通ったカルチャースクールで講師だった元編集部・榎本了壱氏が、
原田治画伯の描かれた似顔絵にそっくりだったのは、驚いた。
冒頭の『ビックリハウス』ギャラリーがいちばんよかったかも。という感想は失礼か。
岡崎京子の『東京ガールズブラボー』での「サカエのつぶやき」が、同時代を体験した現在の中高年者には、しみる。
「YMOは散会しディズニーランドは千葉にできて ローリーアンダーソンがやってきて
松田聖子がケッコンした ビックリハウスが休刊して「アキラ」が始まった」