聞く耳をもて。これがなければ、話は通じない

 

 

『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』仲正昌樹を読む。


おおっ、こりゃ、正真正銘のバカの壁だ。つーか、バカの人垣とでもいうのか。

講演でありきたりの質問やとってつけたような自分の知性の高さをひからかそうとするヤカラ、自己チュー、被害モーソー、揚げ足取り、ゲスの勘ぐり、そんなののオンパレードで、(ここでうっかり筆を滑らせるとネタバレになるし、作者のように因縁をふっかけられても困るし)


懐かしのTV番組『クイズ100人に聞きました』じゃないけど、ページをめくりつつ心中「ある!ある!」のリフレイン。いやあエピゴーネンなのかフォニーなのか知らないが、
次々と現われる敵(?)を小気味いいくらい論破している。

 

ほんとに講演会での質問とか止めりゃいい。時間のムダだよ。たいていは。会議とかもそうだよ。昔いた広告会社の上司は、話をまとめるというか、ぶり返すというか、他人の意見のオウム返しで、まったく自分の意見というものがなかった。そのくせ、しつこくて、話が長い。スーパーマーケットの店頭デモのエンドレステープのようだった。

 

以下ぼくなりのメモ。

 

岸田秀がいう「幻想」を仲正は「物語」という。意味するものは、近似値。ひとりひとりが自分の小さな物語をつくり、当然そこの主人公におさまり、まあ、虚構なんだけども、お山の大将になってそのタコツボから出てこようとはしない。分かり合おうなんてしない。

 

マルクスが幅を利かせていた頃は、テーゼ-アンチテーゼ、反証、反論、批判が盛んに試みられたが、サヨクが廃れると、今度は米国式のディベートが台頭してきたが、果たして反論に意味はあるのか。意味のある論旨の通った反論は、実際、少ないとか。

 

○時間のムダなんでまったく見なくなった『朝まで生TV』が、そのいい例。

 

○大学ではかつてのような知的な「叱り役」がいなくなって「思いつきのストーリーを論理的に練り上げなくても」まかり通るようになってしまい、そんな院生、研究者が増殖するようになったそうだ。

 

○すぐにsnsなどに「書き込む」な。書きたいこと、言いたいことは、一度、反芻せよ。
別な角度から検証せよ。時には、その思索の試作を寝かせてみよ。

 

○ブログからプロデビューを夢見て、ついカゲキなことを捏造してPVを増やそうとするが、そんなのはダメダメ。やはり思いつき垂れ流しのネットには厳しい見方をしている。素人ネットレビューにも。

 

○それと聴く力の減退。これがなければ、話は通じない。コミュニケーションというと、話す、伝えることばかりに重きが置かれてきた。その結果が、このザマ。他人の話に耳を傾けず、自分の物語を一方的に話す、あるいは書き込む。

 

目からウロコが何枚も落ちてしまった。

 

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