「健全な懐疑主義はむしろ今の社会を生きていくために必要なスキルではないだろうか」

 

 


疑似科学と科学の哲学』伊勢田哲治著を読む。

「悲観的帰納法」が気に入ったので引用。

「非常にうまくいっていた理論1は偽であることが判明した
 非常にうまくいっていた理論2は偽であることが判明した
 非常にうまくいっていた理論3は偽であることが判明した
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したがって(おそらく)非常にうまくいっている理論はすべて
偽であることが判明するだろう」

 

「つまり、これまでの科学の歴史で目に見えるもののレベルで非常に成功を納めた科学理論はいずれも文字通りには誤りであることがあとになって判明してきている。そうであるならば現在非常に成功している理論もまた遠くない将来誤りであることが判明するであろう」と、いう意味。

 

ジンテーゼなき弁証法と似て非なるものなのか。救いようがないのはさすが「悲観的」ってところ。

 

気になるキーワード「プラシーボ効果」。ここ、面白かった。


プラシーボ効果とは、およそどんな治療であれ治療をしてもらったと患者が思うことによって患者の症状がよくなることを言う」
代替医療に懐疑的な側からは、代替医療の治療効果の大半はプラシーボ効果ではないかと言われている」
代替医療とは「ヨーガ、鍼治療、カイロプラクティック、マッサージ、アロマテラピー」などがあげられる。

 

むげに否定もできないのだが、あやしいものもあるしなあ。これらの「全体的な効果や精神的な効果は定量的に捉えにくく統計的に処理しがたい」。


科学的な数値やデータに落とし込めないからインチキと決めつけるのはなあ。だったらとっくに街の治療院やマッサージは廃れている。それどころか、繁盛してるし。と、非科学的な締め。

 

終わりのほうに書かれてあった一文を引用。

 

オウム真理教の幹部にけっこう偏差値の高い大学の理系の出身者が多かったことがわかって、-略-彼らがオウムに入信した理由はいろいろあるのだろうけど、「疑う」ということをあまり習ってこなかったということも、彼らが「ころっとひっかかった」理由なのではないかと思う」
「健全な懐疑主義はむしろ今の社会を生きていくために必要なスキルではないだろうか」

言えてる。「疑う」これもリテラシーに入れたい要素だと思う。読む、書く、考える、話す、話し合う。これには肯定・否定(反証)以外に「疑う」もプラスすべきだ。

 

甘い言葉や囁きは眉にツバつけて、よーく疑ってみよう。

 

科学を「疑う」のが、科学哲学の役割だといってしまうのは、プラグマティックすぎるだろうか。分析して真であるか偽であるかを解明する。ねちねちと嫁いびりをする姑みたいな存在なのだろうか。

 

テリー伊藤のマネをするホリの方がほんものよりほんものらしく思えたりとか、この場合は笑ってすませられるけど、笑ってすませられない場合だって、たんとある。

 

ただ科学哲学っていっても実にさまざま。最近のプロレス団体のようで。そのさわりを知るには、いい本であって、ここから興味の持てる方面へ進まれたし。

 

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