ぼけとケアと利他

 

 

『ぼけと利他』伊藤亜紗著 村瀬孝生著を読む。


「美学と現代アート」が専門の(そうだったんだ!)東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長と「宅老所よりあい」代表による往復書簡集。二人の異なる視点や体験などから「ぼけ」と「利他」などについて述べている。そのいわゆるケミストリーが、新たな気づきを与えてくれる。気になったところを引用。


(伊藤)「利他は、しばしば「身が動く」という言葉で語られます。「これをすると自分のためになる」といった損得のそろばん弾きが始まる手前で、もう体が動いて、相手に関わっている。そんな行為にこそ利他が宿ると言うのです。言い換えれば、「体に先を越される」ということですね」

 

利他とは奉仕やホスピタリティなどメンタル面からではなくもっと即物的な体の反応のことなのか。

 

(伊藤)「「前回のお手紙で、村瀬さんはこう書かれています。「おそらく介護する体にはこれまで関わって来たお年寄りたちの『日々気を配っているもの、感じようとしているものがつくりあげた、目には見えないほんとうの姿かたち』が堆積しているのではないでしょうか。このような営みは介護する体にかぎらず、すべての生活する体に
生じていると思います」

 

(伊藤)「「ポイントは、たぶん時間ですね。「身が動く」の背後に時間の堆積があるということに気付くことができれば、それは時間を溜めるうつわとしての体の問題に帰ってきます。人は何か超越的な命令にしたがって「身が動く」のではなくて、体に溜まったものによって、「身が動いて」いる。体は、まさに村瀬さんが話してくださった「閃き」が起こるような、うごめくコンポストなのだと思います」

 

うーん、深い言葉。これから何度も反芻していかないと。

 

(村瀬)「2002年以降から「発達障害」と診断された子どもが急増し始めたことと、2004年に「ぼけ」が「認知症」へと言い換えられ、認知症患者が増え続けることとは無関係ではありません。子どもにある子どもらしさ、老人にある老人らしさまでもが治療の対象となりうる「医療化」の始まった時代だと考えています。「医療化」とは、これまで医療の対象とされなかった事柄が医療の対象になっていくことです」

 

これは知らなかった。授業を座って聞けない子やぼけた老人を病気扱いしてよいのか、どうか。

 

(村瀬)「子どもや老人にかぎらず、認知のあり方は多様に満ちています。けれど僕たちのつくる社会といううつわは、その時々の概念で容(かたち)が偏ります。よって、人間の認知のあり方があまりに多様であるがゆえに、うつわからこぼれる人が出てくる。その、こぼれた人たちが社会の都合によって治療や訓練の対象者としてラベリングされていくのです。ときには合法的な排除へとつながっていく。僕はそのことが受け入れ難い」

 

人種、国籍、性別などの多様性(ダイバーシティ)を尊ぶ社会とかいっているが、それって、まだまだ絵餅じゃん。

 

(村瀬)「(伊藤さんからのお手紙で)興味深かったのは「ケアの場面では、それが体を人に任せる営みである以上、何らかの仕方で自分の体から留守になる必要があります。
それは体をあげることだ、と言えるような気がしています。ケアしてもらうとは体をあげること、ケアをするとは体をうけとることなのではないか」と書いてあるところです。―略―身体介助の場面では、―略―「意図してケアすることを諦めて、当事者のうけとってくれる力に任せる」と読むことができました」

 

「意図してケアすることを諦めて、当事者のうけとってくれる力に任せる」。ケアに関する本をいろいろ読んで、頭の中がもやもやしていたが、そういうことなのかとすっきり。

 

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