記憶する体、体の記憶

 

 

『記憶する体』伊藤亜紗著を読む。

 

障害を持った人たちへのインタビューから「体の記憶」を探る。

障害を持って生まれた人と生まれてから障害を持った人。
この本に出て来る11人は、みな個性的。
何人かをピックアップしてそのさわりを紹介。

 

「19歳で完全に失明した西島さん」。

インタビュー時にも彼女は、ずっとメモを取り続けている。さらに絵も描く。なぜ、そのようなことをするのか。

「生理的には視覚を持たない体です。でも同時に、見えていた19歳までの体を、高精度で保持しています。それは単なる「見えていたときの記憶」ではなくて、まさに現在形で発動する、「見える体ならではの機能の保持」です」


「ダンサーの大前さんは23歳のとき、酔っ払いの車に轢かれるという痛ましい事故によって、左足膝下を失う」。
「そもそも、人生の途中で障害を得ることは、体に対して意識的な役割をするものだと、と大前さんは言います。この変化を一言で言うなら「オートマ制御からマニュアル制御への移行」ということになるでしょう。つまり、それまで特に意識せずにできていた、立つ・歩く・見る・話す、といった動作を、意識的に調節しながら行わなければならなくなるのです」要するに「めんどくさい」。「行為がマニュアル化するとは、手順が増えること」さらに「意識する部分が多い」と。

「オートマ制御からマニュアル制御への移行」か。なるほど。

 

全盲の読書家中瀬さんは言います。「本の描写では視覚的な描写が多い」。彼女がとらえるのは、触覚や嗅覚の情報によって構成される世界です」
「視覚的な記憶を思い出す場合、少なくとも私たちの実感としては、「頭に思い浮かべる」のであって、「目で思い出している」わけではありません。一方、触角は全身に広がっており、「どこで感じたのか」(手のひらなのか、背中なのか、足裏なのか)という位置の情報も、そこには含まれています。となると、記憶に関しても、位置の情報が何らかの形で再生されるのではないか」

 

ビジュアル優先ではなく触覚や嗅覚から捉える文学。あるいは表現。新たな領域を拓くかもしれない。

 

「「もし目の前に、これを飲んだら吃音が治るという薬があったら飲む?」という問いへの答えは、意外にも、そこにいた全員が「NO」でした」

「一般に、障害はネガティブなことと考えられています。しかし、重要なのは、吃音を含め何らかの障害を持った人間である、ということなのではないのではないか。そうではなく、そのような障害を抱えた体とともに生き、無数の工夫をつみかさね、その体を少しでも自分にとって居心地のいいものにしようと格闘してきた。その長い時間の蓄積こそ、―略―その人の身体的アイデンティティを作るのではないか」

 

眼を開かせられる思い。

 

「体の記憶とは、二つの作用が絡み合ってできるものなのです。一つは、ただ黙って眺めるしかない「自然」の作用の結果としての側面。もう一つは、意識的な介入によってもたらされる「人為」の結果としての側面です」

 

リカバリーというのか。自身で補う。そしてそれをカスタマイズしていく能力。
障害を持った人たちを一括りにできない。当然、ケアも。そう考えさせられる。


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