弾劾の断崖へ

母なる夜 (白水Uブックス (56))

『母なる夜』カート・ヴォネガット著 池澤夏樹訳を読む。

 

第二次世界大戦中、ハワード・W・キャンベル・ジュニアはアメリカ人でありながらナチス・ドイツの「ラジオプロパガンダ」を請け負い、スパイとして活躍した、いわゆる売国奴。ところが、実態はダブルスパイだった。ナチス・ドイツのスパイと見せかけて有力な情報を収集してはアメリカに報告していた。戦後、彼はナチス・ドイツの手先として名を知られていたが、その実、アメリカのスパイだったことは依然秘密とされていた。

 

汚名と恥辱にまみえるが、本当のことを知る人は皆無に等しい。このアンビバレントに自身が引き裂かれそうになる。良心の呵責の念からか、法の裁きを選ぶ。そして
戦争犯罪人裁判を望んだ。自らイスラエル政府に出頭し、いまは牢獄の中にいる。そこからの彼の独白により、物語は進行する。

 

彼の脳裏をよぎる思い出が堰を切ったかのように語られる。戦前、戦時下のドイツでの生活。彼はドイツ人の妻をもらい、親族とも親しくつきあい、時にはナチスの制服に身を包んだ。ドイツ人になりきろうと、ナチスから信頼を得ようとした。しかし、それは母国・アメリカのため。とは、思うものの、妻を欺いている罪の意識は消せない。

 

戦後、ニューヨークでの生活。妻や妻の親族の多くは亡くなったが、こうして生きている自分。真実を打ち明けても理解は困難だと諦観している。さらに米ソ冷戦状況下、ソ連が優れたスパイである彼に触手を伸ばしてくる。静かに生きたい彼の気持ちなんてお構いなしに。


ドイツにもいまのアメリカにも自分の居場所はない。生きてはいるが、精神は死んでいる。戦争に蹂躙された生ける屍と化した男。

 

たたみかける回想シーンのうまさ、登場人物の設定や証言の巧みさはあるが、フリーマントルの「チャーリー・マフィン」シリーズのような単なるスパイものではない(あ、けなしているわけではない)。訳者は「寓話」と評している。


捕虜として凄まじいドレスデン爆撃を体験したヴォネガットならではの骨太な反戦文学、戦争文学の一冊だと思う。

 

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