暦の上ではセプテンバー

 

生命の臨界―争点としての生命

生命の臨界―争点としての生命

  • 発売日: 2005/02/01
  • メディア: 単行本
 

 近所の給水管付け替え工事の騒音に負けずに、企画案を練る。

 

『生命の臨界 争点としての生命』松原洋子・小泉義之編を、つらつらと。
みずみずしい、いいカバー写真だと思ったら鬼海弘雄ではないか。
ぼくの出た学科の先輩にあたるらしい。と、いっても面識はないけど。

 

「ゾーエー、ビオス、匿名性」の章で小泉が書いていることに、はげ同。以下メモ。

 

「従来の議論は、固有名としては氏名のことだけを考えていました」


「固有名は基本的には人格を指示します。ところが、生-政治においては、固有名は人格ではなく肉体を指示します」

「固有名を隠したところで、生-政治から逃れることにはならない。特定の情報から個人名を割り出すことができないようにしたところで、個人情報を保護したところで、生-政治にとっては痛くも痒くもない」


「私は、固有名が無意味になるゾーエー、否応なしに匿名化されるゾーエーにおいて、ある一つの別のビオスを立ち上げることが、新しい生-政治として追及されるべきだと考えます」

 

ノーマライゼーションと同義語であるはずのバリアフリーの方が世の中に浸透しているのは、

「建設業界に新たな仕事を与えているから」

 

だと。

監視カメラに代表される、進行している監視社会化に対しは

 

「監視は、良き市民の自由の量を増やしているのです。そしてそのことで、監視は、市民から見て怪しげな人間の自由を奪っているのです。この自由の不当な配分こそが批判されるべきです」

「生-政治の下で、緑溢れる小奇麗な牧場で保護され配慮され飼育されることが、一体どれほどのものなのでしょう」

 

鶏舎で飼われるブロイラーじゃなくて、外で放し飼いされた鶏になりましょう。

なるほどと思っちゃ、ダメさ。
いくら放し飼いされて、有機飼料と天然水で育てられても、
しょせん、飼われていることには変わりはないんだから。

 

人間に飼育されたオランウータンは、なかなか語源となった「森の人」になるのは
困難だというし、なあ。

 

通勤本はコルタサルの『遊戯の終わり』。

 

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