- 作者: 木村敏,今野哲男(聞き手)
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2008/10/02
- メディア: ハードカバー
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昨日、再開となった新宿御苑のそばまで行く。
所用を済ませると夕刻。
も少し早い時間帯なら、御苑内を散歩しようと思ったんだけど。
年代物の御苑の塀を眺めつつ、駅へ向かう。
やけにオナガの仰々しい鳴き声が響いていた。
『臨床哲学の知』木村敏+今野哲男著を読む。
前にも書いたことがあるが、難しいことを書く人がいる。
でも、そのご高説を賜りたい。どーする。
インタビューを読む。対談集が出てたら、入手する。
話し言葉だと、書き言葉よりはわかりやすい、大概は。
たまに、対談原稿を著者校で書き言葉に直す人もおられるようだが。
あと、最新のものを読むべし。
この本は、「臨床哲学」に関する「語りおろし」。
インタビュアーが聴き上手なのだろう。
いい間(ま)で、いい間(あいだ)をつくっていて、
そのいい時間がこちらにまでも伝わってくる。
以下、ポストイットだらけの中から何カ所か引用。
「人間、これは元来が中国語で-略-「世間」というぐらいの意味を
もっています。奈良時代、当時の日本人は世間ではなく一人ひとりの
意味に理解してしまった。これは誤読なんですが、どうして起こりえたのか。日本人がその当時から、個々の人間が人間として生き、人間として認められるためには、そこに「人と人のあいだ」が含まれていなければならないという認識をもっていたということがあったのに違いありません」
「じんかん」と「にんげん」。「誤読」が、認知されてしまうというままある例。
「わたしには非常に辛い記憶がひとつあります。薬を使って症状をきれいに取ったら、その患者さんが自殺してしまったということがあるのです。
症状を撮られるということは、患者さんにとっては自己防衛手段を奪われることと同じですから-略-。症状はひとりでに消えるまで無理にとってはいけないという考えは、そのとき以来、いまもずっと変わりません。」
野口療法を思い出す。一病息災ぐらいでいい。
「健康のためなら死んでもいい」病が蔓延しているようだが。
「風邪と同じで、症状は出す必要がなくなれば自然になくなります。症状が出るのは、生きる力、病気と闘う力があることの証拠なのですね。しかし、ここ二十年、三十年、精神医学というのは、まったくそうではなくなってしまいました。症状をとること以外は何も考えなくなっています」
「日本でこのメランコリー以外の鬱がやけに増えていることは間違いありません。少なくとも鬱に効くという薬はすごい勢いで出回っていますし、そういった薬をほしがる患者さんは急増しているのでしょう。しかし、薬は鬱という症状を生む脳の変化に対して効くだけですから、いまは鬱病が増えているというより、それとは違う原因による鬱状態が増えているということなのだと思います」
鬱病は薬で治るらしくて、すげえと思ったが、
メンタルヘルスは、どうなんだろう。
ほぼ毎日のように、起こる電車の人身事故など。
朝9時過ぎに西友で清酒の一合紙パックを2本買っている奥さんを見た。
「真実は、全体と個、心と物質の「あいだ」にあるのです。個は個の主体性で動いている。全体は全体の主体性、今西(錦司)でいえば種の主体性、わたしの言い方では集団主体性で動いている。この両方の主体性が触れあうところ、個でも全体でもない、いってみれば<主体性>そのもの、言い換えれば個体のビオス的な生と全体のゾーエー的な<生>との垂直の「あいだ」、それを見極めておけば、全体論にも個人主義にもならずに現実を見ることができるのではないか、そう思っています」
あれか、これか。じゃなくた。二項対立じゃなくて、中庸というのか。
悪くいえばタマムシ色。その「あいだ」の「あいだ」。
「個が全体 全体が個」って、「色即是空 空即是色」だよね。
「わたしはいま、精神医学の臨床と哲学とを一体のものと考える「臨床哲学」の道を歩いていますが、そういう私の目には、精神医学が急速に自然科学化し、脳科学化している現状が、非常に危険なもののように映ります」
「精神病理学というのは精神科の臨床のことだ」