教授はいかにして、知覚の扉へターン・オンしたか

 

 

『フラッシュバックス ティモシー・リアリー自伝』ティモシー・リアリー山形浩生・森本正史・久霧亜子・松原栄子・明石綾子訳を読む。


ティモシー・リアリーと聞いて、ニヤリとした人はかなりのサブカルサブカルチャー)通か、または60~70代の元若者だろう。

 

本書は「60年代カウンターカルチャーの雄」、「サイケデリックカルチャーの代表選手」といわれた作者の半生を自ら記したものである。名門ハーバード大学の教授であった作者は、LSDを研究するならば、研究者自らが体験しなければならないと、LSDテストを試みる。そしてブッとぶ。一事が万事、この調子。決してヒップ(この言葉も死語か)ではなく、スクウェア(ゲームソフトの会社名にあらず)なのに、なぜか破天荒。常に大マジメなのに、何度かの入獄、何度かの脱獄、その合間に、何度かの恋愛と世界を股にかけ、国家権力から逃げ回る。そのサマは、ビートルズの『ヤア!ヤア!ヤア!』のごとし。

 

かなり部厚いハードカバーなのだが、翻訳が練れた日本語なので、途中で投げ出すことなく最後まで読了できる。各章に入る前の扉ページで紹介される人物プロフィールもなかなかのもの。

 

顔写真を見ると、ちょっぴりスティーブ・マーティンに似ている。理性と狂気が同居している雰囲気は、やはりどこか通じるものがある。ま、かなり強引な結びつけだが。教授は、80年代に復活。研究テーマは、ドラッグからサイバーパンクなどコンビュータカルチャーに傾倒しつつあったという。

 

フラッシュバックとは通常「過去の記憶が急によみがえる」ことを意味する。次に、ドラッグ体験者が、ドラッグを止めた後、突然使用していた時の妄想や幻覚症状が再発することも意味する。ダブルミーニングのタイトルは、作者にまさしくぴったりといえよう。

 

ファッションや音楽も、今はここらあたりの時代のパクリというかネタモトだよね。本も、古本屋をのぞけば、当時のサブカルチャーブックってあるはず。表紙なんかは、日焼けして褪色しているかもしれないが、中身は全然新しいと思う。

 

21世紀のティーンエイジャーたちに、読んでもらいたい。

 

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魚が陸に上がる日-デボン紀

 

 

『手足を持った魚たち―脊椎動物の上陸戦略 シリーズ「生命の歴史」〈3〉』ジェニファクラック著松井孝典真鍋真、池田比佐子訳を読む。

 

書き下ろし「生命の歴史」シリーズ。『カンブリア紀の怪物たち』『失われた化石記録』に続く3冊目が本書である。

 

人のルーツは魚だったといわれる。その証として胎内での人間の最初の生命が魚に酷似しており、次第に人間らしくなっていく、そんな図版を目にした人も多いだろう。

 

さて本書の舞台となるのはデボン紀。今からおよそ4億1000万年から3臆6000万年くらい前。この時代に魚が種類、量ともに爆発的に急増した。ゆえに「魚の時代」といわれる。それは「大気の酸素濃度の上昇によりようやく陸上が生命の棲める環境になったからである」。

 

魚類は脊椎(せきつい)を持った最初の動物。デボン紀後半には四肢(指の付いた4本の足)を発達させ、上陸を開始する。

 

なぜ四肢動物は水から陸へ上がったのか。さまざまな説を紹介している。かいつまんで述べると、「四肢はもともと歩行用ではなかった。泥にもぐりこむために発達した」「生息地域内の個体数が多すぎて窮屈になったため移動した」「捕食魚類から逃げるために」生存のために。陸地に上がれば、敵に襲われる心配もないし、食料もふんだんにある。そしてデボン紀末期には、両性類が出現する。人類が登場するのは、まだまだ先のことである。

 

海に心を惹かれたり、また熱帯魚の飼育がブームになるのも、遺伝子の中にこの頃のことが組み込まれているせいなのだろうか。あるいは人間が人間であることに疲れて、自然と原初の風景を求めているからなのだろうか。

 

骨格などの図版も多数掲載されており、専門的な知識がなくとも、十分に楽しみながら読むことができる。

 

魚が陸に上がる。そんなシーンを想像してワクワクする人におすすめしたい。GONTITIの名盤『DEVONIAN BOYS』をB.G.M.にしてね。
 
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詩人が平積みしたい93冊の本―あなたの二十世紀書店には、どんな本が並んでいますか

 

 

『定本 私の二十世紀書店』長田弘著を読む。


以前、読んだことがあると思ったら、本作は随分前に中公新書から刊行されていた(あとがきによると1982年)。改めてみすず書房版を読んでみると、前回読んだ時とは異なった発見や感動があった。マヤコフスキーではロシア構成主義ブレヒト三文オペラ』、ゼルダフィッツジェラルド『こわれる』、リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』(そのうちレビューしたい)など、いろいろな作家や本を思い出させてくれた。

 

本作は、詩人である著者が、「自由な開かれた街の書店で出会った」二十世紀の本を選び、93篇の書評に編纂(へんさん)したものである。「いま」的に言えば、コンピレーション、V.A.である。並んでいる本は、詩人の目に適ったもので、範疇は、バラエティに富んでいる。決して平易なものばかりではない。恥ずかしながら未読の本がかなりある。

 

しかし、どの書評も読み口は、さらりとしている。肩肘張らずに、読める。良い書評とは取り上げられた本をすぐさま、読みたくさせるもので、「実物より面白い書評」(『本は寝ころんで』小林信彦著/北上次郎氏の解説より)が理想の書評なのではないだろうか。ここに載っているものは、かなりそれに近い。

 

入るまでは、軒が高そうな気がするが、いざ入って、馴染みになれば、とても居心地の良い書店もしくは古書店を想像させる。そこには、意外な掘り出し物があるかもしれない。残念ながら、そんな刺激的な街の書店は、少なくなってきているが。

 

あなたの二十世紀書店には、どんな本が並んでいますか。
あなたの二十世紀書店には、どんな本を並べますか。

 

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言葉尻ではなくて言葉の肝をとらえるためには

 

 

『いつもの言葉を哲学する』古田徹也著を読む。

 

哲学者が気になる最近の言葉や用法、表記などについてやさしくかみ砕いた本。
ただし用語解説ではなく、用語の考え方(概念)にふれているのでぼく的にはもやもやが晴れることが少なからずあった。何か所か引用。

 

「言葉は魔術や呪術」

 

「(古代ギリシャ時代)言葉は人の生活や思考の隅々に行き渡っており、陰に陽に甚大な影響を与えている。言葉を巧みに操れば、根拠の弱い主張を強くも見せることもできるし、同じ事柄を称賛することもできれば非難することもできる。自分を偉大に見せ、自分のしたいことに支持を集めることもできる。ソフィストたちは、ときに言葉を魔術や呪術になぞらえもした」

日本では言葉は言霊とも言うしね。ソフィストってなんか詭弁家という印象が強いんだけど、偏見かな。

 

「親ガチャ」

 

「「ガチャ」とは、「ガチャポン」のことだが、いまや「ガチャ」はスマホなどのソーシャルゲームに組み込まれたクジ引きを指す。「親ガチャ」という言葉は、子がどんな両親の下に生まれるかという運を表現しているようだ。たとえば「親ガチャに外れた」という表現は、自分が貧乏な家庭に生まれ育ったことや、親が虐待をする人間であったことなどを意味する」


そこには若者の自虐や諦観が込められていると。エビデンスはないが、確かに昔の方が自助でステップアップしていく可能性が高かったような気がする。ほら、東大へ受かった家庭は高収入とか。人生もオープンコースではなくセパレートコースなのかと。


「ケア」

「哲学者の早川正祐さんによれば、英語のcareという概念は、相手―それは人とは限らず、物や事である場合もある―のことが気にかかるという受動的なあり方と、相手のことを気にかけるという能動的なあり方、そして相手のことを大切に思うという献身的なかかわり方、その三つのあり方から構成されている」

そういうことだったんだ。これに相応しい日本語はないと。ゆえにケアという言葉が浸透していると。決して西洋かぶれ(死語)ではない。

 

「お母さん」

ファミリーマートのお惣菜のネーミング「お母さん食堂」が物議を呼んだのは記憶に新しい。

 

ジェンダーバイアス(社会的な性役割についての固定観念)をめぐる問題に関しては、「お母さん」という言葉以外に、「母」というこの一語自体が社会で含みもってきた特定の意味合いも無視できない」「たとえば、「母語」、「母国」、「母校」」「「おかあさんといっしょ」というNHKのテレビ番組」


それは単なる言葉の置き換えでは問題は解消しないと。「お父さん食堂」っておいしくなさそうだし。

 

「ある個別の言葉に対して、ある人々の間に違和感が生まれてきたときに、自分もその言葉に対してあらためて注意を向けて見直すこと。そして、その言葉に関連する現実(生活のかたち、社会のあり方)をさまざまな角度から見直すこと」

が大事だと。

あ、「処女」って言葉もNGらしい。「処女作」、「処女航海」、「処女峰」とか。
差別用語も同じ気がする。


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因果は巡る 持つ者と持たざる者の差

 

 

 

『銃・病原菌・鉄 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』(上下)ジャレド・ダイアモンド著 倉骨 彰訳を読む。    


最近、「デジタル・デバイド」という言葉をよく耳にする。要するに、パソコンができる人とできない人とでは、今後ますます格差(デバイド)が生じるといったもので、これが南北問題、貧富の差など、いみじくも「世界の地域間の格差を生み出しているものは何か」という本書の主題の一つと見事なまでにオーバーラップしていく。

 

表題である『銃・病原菌・鉄』は、スペイン人ピサロインカ帝国を滅亡させた要因を挙げたものである。

 

ピサロを成功に導いた直接の要因は、銃器・鉄製の武器、そして騎馬などにもとづく軍事技術、ユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫、ヨーロッパの航海技術、ヨーロッパ国家の集権的な政治機構そして文字を持っていたことである」

 

では、なぜスペイン人はそれらを持っていて、アメリカ先住民は持っていなかったのか。持つ者と持たざる者の差、果たしてそれは。あるいは、持っているから優れているのか、先進国なのか。持っていないから劣っているのか、途上国なのか。

 

表題も良いが、またそのコンテンツが良い。「なぜインカ帝国のほうがスペインを征服できなかったのか」「シマウマはなぜ家畜にならなかったのか」など。いやおうなしにも、知的好奇心をかきたてられる。

 

イギリスなどヨーロッパ各国で蔓延していた口蹄疫(こうていえき)。これは、牛や豚など偶蹄目の家畜が感染する病気なのだが、家畜に適する条件として本書の中で、作者は次の6項目を挙げている。「餌の経済効率が良く」「速く成長しなければ価値がない」「衆人下でのセックスを気にせず」「気性が荒くなく」「パニックになりにくい性格で」「序列性のある集団を形成しない」。

 

口蹄疫は人間には感染しないし、家畜も死には至らしめないそうだ。しかし、家畜は太らなくなる。つまり家畜としての価値がなくなるというからやはり、経済面からみて、恐ろしい病気なのである。ついでながら、風邪と同じウィルス感染で、そのスピードはすばやく、万が一、日本に大々的に上陸したら、日本の家畜はたちまち全滅するというから、パニックに陥るのは当然のことだろう。

 

と、こんな具合に多彩な事象を解明するのに役立つ。コロンブスの卵とでもいうべきなのか、いままで何の疑問を抱かなったことを分子生物学、進化生物学、生物地理学、考古学、文化人類学などの学際的領域から次々と一刀両断していく。快哉である。コーフン!である。その道の専門家から見れば、周知のことであると、鼻白んでいるかもしれないが、上下2巻、優れたミステリーのように飽きさせることなく読ませるのは、やはり賛辞するしかないだろう。

 

世知辛い現実から逃れ、しばし、1万3000年の人間の歴史をトリップしてみるのも一興ではないだろうか。

 

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風が誘うんです―人はなぜ旅をするのか

 

 

『みどりの月』角田光代著を読む。

 

人はなぜ旅をするのか。なぜ旅にあこがれるのか。いままでのしがらみを断ち切りたいから。昨日までの自分にさよならしたいから。ガイドブック片手に、外国に行ったとて、新しい自分に出会える保証は何もないのに。

 

初期にロードムービーならぬロードノベルを次々と発表していた作者は、そこらへんの心情を巧みに表現している。本作も今日日(きょうび)の若者の生態を描いた2つの作品から成っている。

 

最初の 『みどりの月』は、旅する前の物語。同居人がいることを-しかもカップル-を知らずに同棲を始めた女の子が主人公。実は同棲相手の男と、同じマンションの別の部屋で暮らしている女は夫婦だった。親が頭金を出してくれたマンションがあるため、双方別れるに別れられない。4人の不可思議な共同生活。女の子はさまざまなトラブルに巻き込まれ、あまりにもその怠惰さに耐え切れず、別れを決意。男は海外に旅に出る。

 

次の 『かかとのしたの空』は、旅、真っ最中の物語。夫婦で家財道具一式投げ売って、タイを皮切りにインドシナ半島をいくあてもなくだらだらと貧乏旅行している。南国の光を浴びながらバスや汽車での移動。蒸せかえる熱気。原色の果実。生ぬるいミネラルウォーターのペットボトル。東南アジアの重たい雰囲気がひしひしと伝わってくる。

 

登場人物に共通しているのは、ともかくルーズ。かといって自堕落とかいう罪の意識は毛頭なくその日、その日を成り行きで生きていく。よく言えば自由。悪く言えば無自覚、無責任。期待はしない。しないから絶望もない。

 

物質的には豊かである。だが、その裏にある虚しさや寂しさ。それを埋めんがために、若者は旅に出たり、宗教に走ったり、または正反対に、引きこもるのだろうか。


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好きな詩集、ありますか。 すき間時間に読む「幸せ」ならぬ「詩あわせ」

 

 

『引き出しに夕方をしまっておいた』ハンガン著 きむふな訳 斎藤真理子訳を読む。

twitterなどのSNSと俳句や短歌は親和性が高い。でも読む人よりも書く人の方が多いかもしれない。詩は、どうだろう。

 

現代詩=難解というレッテルを貼られて幾星霜。でも最果タヒなど若い女性詩人たちの台頭で印象は変わっただろうか。日本のラッパーたちには詩じゃん!と思わせるリリックの書き手もいる。モーメント・ジューンとか。

 

詩人でもある作家ハンガン。描かれる世界は当然通底している。女性の私、母の私、娘の私。ケアとキュアそしてレジリエンス。でも、詩の方が濃度が濃く、深い。


乱暴に言うと小説は膨らますものだが、詩は削って削って削って。省略と抑制。もっと文字数が少ない俳句や短歌の方が省略と抑制は、求められるが。

 

良質の酒米が削られて純米大吟醸の銘酒が醸されるように。個人的にはもったいないんで純米酒派だけど。

 

荒川洋治が述べているように小説はすべて書かれたものを読む。詩は時には読み手にも書き手と同じ位置に引きずりおろす。ある意味、読み手に下駄を預ける。だから繰り返し読める。むしろ繰り返し読むことで新しい発見や感動がある。

 

この詩集には突き刺さる一行が大杉(懐かしの2ちゃん用語)。ランダムに引用。

 

「ごはんを食べなくちゃ」
(「ある夕方遅く 私は」)


矢野顕子の「ごはんができたよ」が浮かんだ。恋人または夫とすったもんだの挙句、自分から別れを切り出す。途端に空腹に襲われる。米を研ぎ、炊飯器を早炊きモードで炊き立てのほかほかごはんをたらふく食べる。心に復活ランプがこうこうと灯る。

「涙がやってくるとき 私の体は空っぽの甕になる」
(「涙がやってくるとき 私の体は空っぽの甕になる」)

 

「ある種の悲しみは水気がなくて固くて、どんな刃でも研磨できない原石のようだ」
(「いくつかの物語12」)

 

「死んだばかりと思っていた黒い木が茂っていくのを見つめていた」
(「夜の素描5」)


ぽっこり空いた時間にランダムに一篇読もう。意外と缶チューハイの当てにいいかも。

♪ スマートフォン閉じて 詩の本で感じて ♪

 

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