戦争機械としての人間―第一次世界大戦というトラウマ

 

 

『戦争の世紀 第一次世界大戦と精神の危機』桜井哲夫著を読む。

 

時間をタテ軸に、ヨーロッパ各国の知識人の心の動きをヨコ軸に、本書は第一次世界大戦への考察を試みている。「われわれは、第一次世界大戦が二十世紀の運命を決定づけただけでなく、いまだにわれわれを拘束し続ける今日の政治的問題へとつながる決定的な出来事であったことを認識せざるを得ないのである」と作者は記述している。

 

第一次世界大戦は、1914年、当時のオーストリアハンガリー二重帝国の皇位継承者のサラエボでの暗殺から勃発。1918年の終結までその間、約6500万人が動員され、そのうち約60%が死傷した。まさに未曾有の大量殺戮(さつりく)である。それは、機関銃、毒ガス、空爆、手榴弾、そして戦車などの新兵器を出現させたモダンテクノロジーの産物によるものである。

 

セリーヌブルトン、バルビュスは塹壕の中で戦争を体験した。ロマン・ロランは嘆き、トーマス・マンは熱狂した。ウィトゲンシュタインオーストリア軍に入隊、イタリア軍の捕虜として敗戦を迎えた。

 

第一次世界大戦がヨーロッパ社会にもたらした精神的亀裂」が、どれほど大きく、深かったことはいうまでもない。だが、「新しい青年文化の芽生え」となった。文学なら、ヘミングウェイの『武器よさらば』、レマルクの『西部戦線異常なし』など。その後、精神科医エリクソン社会学マンハイムなど「不安の世代」の登場となる。ダダイズムからシュールレアリスムへ至る活動も徹底的な破壊が咲かせた時代の仇花といえよう。

 

独り負けしたドイツは「ドイツに対する復讐を求める」ヴェルサイユ条約により、巨額な賠償金支払、インフレ、経済不況に苦しめられ、さらに農業不況に見舞われる。その悲惨な戦後の状況下でナチスの前身であるドイツ労働者党は、大衆の心を巧みに掌握しながら、着々と勢力を拡大していく。やがて…。

 

本書は1925年前後で幕となる。 ちなみに、1925年は「我が闘争」と「シュールレアリスム宣言」が出版された年である。二十世紀は、戦争の世紀。確かにそう思う。なら「民主主義が疲弊している」といわれている二十一世紀は。

 

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ミームってなんだ―「ミームと遺伝子の関係で現代の諸問題を読み解く試み」

 

 

『遺伝子vsミーム―教育・環境・民族対立』佐倉統著を読む。

 

「現代の社会問題の根底には、生命を伝達する遺伝子と文化を伝達するミームの緊張関係がある」。本書は、「ミームと遺伝子の関係で現代の諸問題を読み解く試み」をしているそうだ。昨今話題のミームとその可能性について書かれている。

 

ぼくが書いたこのレビューをあなたがインターネットで読む。読むという行為により、ぼくの心からあなたの心に情報が伝わる。ただ伝わるだけでなく、あなたの心には、何か新たな考えが生まれる。ひょっとして書店へ駆けつけ本書を購入するかもしれないし、友達や恋人にカフェで話すかもしれない。ミームって、こういうことではないのだろうか。

 

ミームの名づけ親、リチャード・ドーキンスは『ブラインド・ウォッチメイカー』の中でこう記述している。

 

ミーム文化は、文化的進化と呼ばれる現象に現われている。文化的進化はDNAにもとづく進化より桁違いに早く進むので、『乗っ取り』ではないかと思わせるほどである」「ミームは、脳から脳、脳から本、本から脳、脳からコンピューター、コンピューターからコンピューターへと広がって行ける。情報のパターンは広がりながら変化する」。

 

「人間は遺伝子のシモベではない」そして「人間の文化(ミーム)は遺伝子から独立している」と。それを成り立たせているのが脳である。上述の反復になるが、「人間は教育と学習によって文化伝統を伝えてくのである」と。「遺伝子とミームのより良い共生」と書いてしまうのは、ワケないが、実際のとこ、どうなんだろう。

 

サブタイトルにあるように、ミームは、かように汎用性があるので、企画書など風呂敷を広げるのには便利なタームだろう。だってケータイだって、チャパツだって、ハヤリものは、みんなミームって言えれば言えるもんね。広告代理店のマーケなんてここ数年はミームの濫発だったりしてね。なんだけど、はっきり言って肩透かし。

 

まあ、なんていうか、特にいま、関心の高い民俗対立の章なんて「人種差別・民俗差別は、遺伝子が生み、ミームが育てる」だって、あったりまえじゃん。確かに、ミームで様々な事象は括れるだろう。「民俗対立を煽る遺伝子を抑制し、否定するミームを普及させることは、絶対できるはずなのだ」と作者は述べているが、共産主義というある種の呪縛が解かれた以降の世界を見ていると、懐疑的にならざるを得ない。そう信じたいのだが。

 

本書は、序論の序論、ほんのさわりといったところだろうか。とまれ、作者がここからどのように掘り下げていくか、一ファンとして楽しみである。

 

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会話をスケルトン化してみると

 

 

『会話を哲学する-コミュニケーションとマニピュレーション-』三木那由他著を読む。

 

企業が新卒社員を採用する基準で最も高いのがコミュニケーション能力だそうだ。
って、遥か昔、ぼくが就活生だった頃も、そんなこと、いわれていた気がする。

 

コミュニケーション=言葉による会話(バーバル・コミュニケーション)をイメージするが、もう一つマニピュレーションがあると作者は述べている。

「「マニュピレーション」というのは―略―「何かを操作すること」といった意味合いを持っています。会話を通じてひとは誰かの心理や行動を操作しようとすることがしばしばありますが、それを「マニュピレーション」と称しているわけです」


んでもって会話における「コミュニケーションとマニピュレーション」の具体的な事例を実際の小説や漫画から当該箇所を取り上げ解説している。ここがこの本のキモ。

 

特に漫画。漫画は絵とふきだしとキャプション(ナレーション)から成立している。テキストのみの小説と比較すると絵で人物の気持ちを知ることができる(ノン・バーバル・コミュニケーション)。だから、ふきだしはすべて発言しなくてもよい。むしろ、少ない方がよいだろう。このあたり、映画と似ている。すると、そこからコミュニケーションとマニピュレーションがどういうものか及びその関連性がスケルトン化されてくる。

 

長めの引用。

 

「話し手が発言をおこない、それのよって聞き手とのあいだで共有の約束事が形成されるとき、そのは発言はコミュニケーションをおこなっているものとなります。コミュニケーションは、話し手と聞き手のあいだでの約束事に関わる。これはこれまでの章でもさんざん述べてきたことです。ですが話し手は必ずしもその発言でコミュニケーションだけをおこなっているわけではありません。あえて白々しい何らかのコミュニケーションをおこなうことによって、聞き手を怒らせようとしてみたり、何かをコミュニケーションのレベルに持ち込まないように巧みに計算した発言をしつつ、その何かを聞き手に情報として伝えたりと、さまざまな仕方で聞き手に与えようともします。発言によって聞き手に影響を及ぼそうとしているとき、話し手はマニュピレーションを試みているといえます」

「コミュニケーションとマニュピレーションの区別はわかりにくいかもしれませんが、音声の多重放送における主音声と副音声みたいな関係にあると思ってもらったらいいかもしれません」

 

ぼくが頭に浮かんだのは永井豪の『マジンガーZ』に出て来るあしゅら男爵

「話し手はひとつの発言でその両方をおこなっています」

 

無意識というか意図せずにおこなっているとか。

かつて行動経済学の本を読んで人間の行動は決して合理的ではない、いい加減ってことを知って目からウロコがぽろぽろ落ちたが、
この本もそうだった。読み終えてからハンディクリーナーで落ちたウロコを掃除した。

あしゅら男爵 半分がコミュニケーション もう半分がマニュピレーション

 

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亡命文学から難民文学へ―新ロストジェネレーション

 

 

『行く、行った、行ってしまった』ジェニー・エルペンベック著 浅井晶子訳を読む。


リヒャルトは大学教授を退官して、今は名誉教授の肩書。妻には先立たれ、お一人様の老後を淡々と過ごしている。聖人君子のようなタイプではなかったようで過去には若い愛人がいたことを短くふれている。妻がいなくなっても律義にいままでの生活習慣を守っている。

 

「アレクサンダー広場」でハンストをしているアフリカ難民がいることをニュースで知る。そういえば「オラニエン広場」ではテント暮しをしている人もいる。「ベルリン州政府」は彼らに広場からの撤去を申し入れ、代わりに元老人施設を新しい仮の住まいとして提供する。そこはリヒャルトの自宅のそばにあった。

 

することもないのでその施設に足を踏み入れると、ボランティアでドイツ語を教えている女性と知り合いになる。恋というわけではないが、彼女を魅力的だと密かに思うようになる。

 

アフリカからの難民たちはでイタリア経由、つーかイタリアから追い払われ、ドイツに流れて来たらしい。なんとはなしに彼らたちが気になって足繁く通うようになる。はじめは警戒していた彼らもぽつりぽつりと生い立や故国の状況などを話すようになる。たどたどしいドイツ語であっても、気持ちは伝わる。

 

成り行きでリヒャルトは、中級ドイツ語クラスで教えるようになる。

 

リヒャルト自身も東ドイツに生まれ、故国が無くなる体験をしている。故国と妻を失った自身の境遇と故国を離れた彼らに、シンパシーを覚えたのだろう。同情というと何か上から目線っぽいが、同情ではないだろう。一方的に連帯感みたいなものを感じていると思うんだけど。

 

試しに彼は難民の一人に「ベルリンの壁」や「第二次世界大戦」「ヒトラー」のことを訊ねる。知らなかった。リヒャルトがアフリカで何が起きているか、起きていたかを知らないように。

 

彼はガーナからの難民の一人に故国での土地の購入代金3000ユーロを頼まれもしないのに融通する。

 

やがてアフリカ難民のうち、ほとんどの者が退去を命じられる。イタリアを追われ、またドイツでも難民たちの満足いく結果には到底結びつかない。なぜ犯罪者のような扱いをするのか。心を痛めながらもできるだけの支援をしようとするリヒャルト。友人たちのインテリ層は、彼の行為を酔狂のように見ている。

 

止むに止まれず母国を脱出したが、安住の地は見つからない。彼らのカナンの地は、どこにあるのだろう。


『行く、行った、行ってしまった』というタイトルは、リヒャルトにとって、東ドイツ、妻、そしてアフリカからの難民たちのこと、過去の楽しい思い出などが去ってしまったということなのだろう。

 

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「万物に子供のように驚きの目を瞠(みは)る人」

 

 

博物学の巨人 アンリ・ファーブル』奥本大三郎著を読む。

 

ファーブル先生は、日本ではつとに高名だが、母国フランスではさほど知られていないそうだ。確かにそうだ。虫の音を風流と感じ、和歌や俳句をしたためるなんざ、昔の日本人ぐらいなもんでしょうから。そのファーブル先生の生涯を斯界(しかい)の権威である作者がペンをとるのだから、これはもう読むしかないでしょう。

 

ファーブル先生は、実家のカフェ経営が思わしくなくなり、15歳の時、神学校を辞め、働きに出る。しかし16歳の時、アヴィニョン師範学校に一番で合格。19歳で小学校の教師となり、25歳の時、コルシカ島の中学の物理の先生に。爾来、好きな虫の研究を続ける。「物理の教師のくせに虫に興味を持っているらしいあの男」と教師仲間から揶揄された先生だが、栄誉ある科学アカデミー賞を受賞する。『昆虫記』第一巻が出版されたのは、55歳の時である。

 

研究資金捻出のために、アカネの染料で特許を取る件(くだり)は、きわめて実学っぽいというか、ある意味、ベンチャービジネスっぽくてますます気に入った。

 

社交界のパーティーなどを時間のムダと決めつけ、権威を徹底的に毛嫌いする。文字通り在野の人であり、教え子たちに愛された先生。授業がいかに楽しかったかを想像するのもたやすいことだ。


徹底した実証主義者の先生とは正反対のダーウィンや『自由論』などの著者ジョン・スチュアート・ミルとの意外な交遊録も興味深い。

 

作者は「独学者にして特異な思想家」また「文学と科学の調和を実現」した人として、ファーブル先生と南方熊楠(みなかたくまくす)を挙げている。ともかくパイオニアであり、アカデミックな立場でなかっただけに、正当な評価を受けるまでに随分と遠回りをした先生。

 

「万物に子供のように驚きの目を瞠(みは)る人」。作者の敬愛と優しさに満ちあふれた文章からその生涯を知ることができる。

 

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ぼくわ、ようやく、この本およみました。ネズミのアルジャーノンがとてもかわいいとおもいました。男の子は、脳のしじつをうけておつむがよくなりました

 

 

アルジャーノンに花束を[新版]』ダニエル・キイス小尾芙佐訳を読む。


ぼくわ、ようやく、この本およみました。
ネズミのアルジャーノンがとてもかわいいとおもいました。
男の子は、脳のしじつをうけておつむがよくなりました。
ぼくわ、しじつはいたいのでいやれす。

 

いまやSFの古典的名作となった本作。大人なのに子ども並みの知能しかない主人公は、脳外科手術により知能を奇跡的に回復する。いや回復する以上に急速に明晰な頭脳に変貌を遂げていく。賢くなるにつれ、いままでの勤務先のベーカーリーショップからはスポイルされはじめ、研究所の女性とも関係がギクシャクし始める。もっとも、いちばんメン食らっているのは、当の本人なのだが。

 

彼に施された手術は、彼のためになったのだろうか。実験用に飼われ、さまざまなテストをされていたアルジャーノンと何ら変わりないのではないだろうか。賢くなった彼は、当然、スタッフを責める、なじる、そしる。

 

最近、ITの次はヒトゲノムだなんて騒がれている。臓器移植、クローン、ES細胞とか、かなり現実化、どころか産業化しつつあるようだし。確かに、凡百のSFやホラー小説では、現実に負けてしまうだろう。そんなご時世に本作を読んでみると、また別な側面で新たな発見や感銘が得られた。何かまるでノンフィクションでも読んでいるような気分になってしまった。

 

自分の人生でさえ、自分の思うままに、主役を演じられないなんて。人間の普遍的なテーマを扱っているから、色あせることなく、ロングセラーになっているのだろう。と、切なくため息。

 

しやわせってなんなんだろう。
またぼくわまえのようにアタマの中が
もやもやとしてきたれす。


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人は自然とどこまで共生できるのだろうか

 

 

『失われた森 レイチェル・カーソン遺稿集』レイチェル・カーソン著を読む。

 

レイチェル・カーソンの名前は知らなくとも、『沈黙の春』を知っている(題名だけは聞いたことがある)人は、存外多いはず。

 

春になっても、野の鳥は歌わない。鳥を沈黙させたのは…。「1962年に発刊された『沈黙の春』は、DDTなど化学薬品の害をはじめて世に訴えた」本で、アメリカ国内はもとより、世界中を震撼させた。その後、DDTは使用禁止となる。エコロジーの先駈け、エコロジストたちのバイブルとも言われる名著である。作者は、病に犯されながら執筆、1964年にガンで没している。

 

沈黙の春』をはじめ、作者は生前わずか4冊しか著書を発表していない。長い間、埋もれたままになっていた大量の原稿や書簡、講演録を根気良く調べ、収集し、編集、解説した。これが、本書である。著作は年代順に構成されているが、30歳の時掲載された処女作から晩年にいたるまで、人間の自然破壊への厳しい批判、人と自然の共生を模索する姿勢は、一貫している。

 

科学者やサイエンスライターというと、何やらおカタく、難解な文章と想像しがちだが。さに、あらず。詩的な叙情あふれる文章である。優れた宗教書の趣(おもむき)すら感じられる。個人的に最も、胸うたれた部分のさわりを紹介しよう。

「雲にはこの地球と同じ古い歴史がある。雲は大地や海とともに、この世界を形づくる。雲は、風が空に描く物語。海を渡り、陸地を渡って進む、大気の塊の航跡を示している。―1行略―その大半は、地球上に生命が存在するために欠かせない一連の作用を示す、宇宙のシンボルだ。」(第3部つながり-生態学、人間社会と自然美23『雲』より)

魅力的なアンソロジーに束ねた編者にも「ありがとう」と、言いたい。 草原の上で、または、海辺で、風をB.G.M.にして読んでもらいたい。バーベキューばっかりするんじゃなくてね。

 

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