「進化は進歩ではない」―ポロポロポロ(目からウロコが落ちる音)

 

 

 

『残酷な進化論-なぜ私たちは「不完全」なのか-』更科功著を読む。

作者の専門は「分子古生物学」。何やら難しそうだが、この本は進化や自然淘汰などその核心をわかりやすく書いてある。

 

「生きている」とは「散逸構造

 

「そこで、ここでは仮に、台風のことも「生きている」と表現することにしよう。
つまり「エネルギーを吸収しているあいだだけ一定の形をしていて、ときどき同じものを複製する」ことを、「生きている」と表現するわけだ。周囲からエネルギーや物質を吸収し続けて一定の形をつくっている構造を「散逸構造」と言う。身近な例としては、台風の他に、ガスコンロの炎も散逸構造である」

 

散逸構造」は生物、非生物の別を問わない。

 

間違って覚えていたのか、自然淘汰

 

自然淘汰(自然選択とも言う)という進化のメカニズムは、環境に適した形質(を持つ個体)を増やす力がある。それでだいたい正しいのだが、正確には自然淘汰が増やす形質は、子供をより多く残せる形質である。そして、これだけである」

「良いものだけが残る」んじゃないんだ。種の保存、つまり生存のためだけなのか。

 

「いまを生きている私たちは、個体の生存こそが重要であると考えがちである。病気になったり、体が痛かったり、そして何より死んだりすることをいやだと思う。でも進化は、個体の生存なんて考えてくれない。いや、個体の生存こそが子供の数に関係すれば別だけれど、そうでなければ考えてくれない」

 

進化は個々に冷たい

「生物は、そのときどきの環境に適応するように進化はするけれど、何らかの絶対的な高みに向かって進歩していくわけではない。進化は進歩ではないのだ」

進化=進歩と思って何の疑いを持たなかったが。進化の過程でダウングレードしたとしよう。これも進化のうちなのだろう。ポロポロポロ(目からウロコが落ちる音)


ふとオスのサケを思い浮べた。生まれ故郷の川へ必死こいて遡上して、メスが産んだ卵に必死こいて精液を振りまく。役目を終えてボロボロとなった体は、クマのエサか、森の肥やしになる。

 

ダーウィンが進歩は進化ではないとはっきり言ってから、もう160年以上が経っている。それなのに、「存在の偉大な連鎖」は、人々の心の中に未だ住み続けている」

人間=万物の霊長、幻想か。サルから人への進化図などに刷り込まれているのかもしれない。

 

「すべての生物は「不完全」であり、だからこそ進化が起きる」

 

「もしも鳥類が自分たちを中心に考えれば、鳥類の優れた眼を完成品の眼だというイメージを持つのではないだろうか。その場合、鳥類は私たちヒトの眼を、未完成の眼だと思うかもしれない。でも実際には、進化に完成も未完成もないのである。環境が変わればいくら「完全」に思えたものでも、役に立たなくなる。すべての生物は「不完全」であり、だからこそ進化が起きるのだ」

 

でも「不完全」な箇所を改善して進化したとしてもそれが進歩とは呼べないってことか。

 

「生物は「死」と縁を切ることはできない」

 

「死ななくては自然淘汰が働かない。そして、自然淘汰が働かなければ、生物は生まれない。つまり、死ななければ、生物は生まれなかったのだ。死ななければ、生物は40億年間も生き続けることはできなかったのだ。「死」が生物を生み出した以上、生物は「死」と縁を切ることはできないだろう。そういう意味では、進化とは残酷なものかもしれない」

仏教でいうところの「生者必滅」とリンクする。いまのところ、延命(死の先送り)はできても不死はできないわけだし。


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「地球上で最も獰猛な人食い生物は、カモなどの水鳥の無害な寄生体である」意外!

 

『感染爆発 鳥インフルエンザの脅威』マイク・ディヴィス、読了。

つらつらと雑駁なメモ。

ここを最初に引用。

 

「地球上で最も獰猛な人食い生物は、カモなどの水鳥の無害な寄生体である。毎年夏の終わりに、無数のカモやガンが、南へ渡るためにカナダやシベリアの湖沼に集まるころ、インフルエンザが大発生する。1974年に初めて明らかにされたとおり、ウイルスは、幼鳥の腸管のなかで、危害は加えずに激しく増殖し、水中に大量に排出される。するとほかの鳥がこのウイルスのスープを飲み、やがて幼いカモやガンの三分の一がインフルエンザのウイルスをまき散らすようになる。」

 

「インフルエンザウイルスは、カモがなんともないまま増殖するのである」


それがブタやヒトになると、インフルエンザウイルスは猛威を奮い出す。

鶏舎という生産効率を最優先したファクトリー的な農業スタイル(「家畜革命」)じゃあ、いざ、鳥インフルエンザなどが発症したらひとたまりもないわけで。
この本に紹介されているタイや中国の事例が恐ろしくて。
鶏を毎日捌いている人は、鶏の異変に当然気づくけど、それを経営者や国家は隠蔽するわけだ。香港の事例は、ほんとに異星人とのバトルのような、バイオホラー映画をイメージさせる。

 

鳥インフルエンザはおさまったわけじゃなくて、一時的に鎮圧されただけで、ウイルスはまた人間の予測を超えた、予測のつかないレベルで変異を遂げる。だったら宿主の渡り鳥を殲滅させろなんてバカな意見が出るかもしれないが。

 

このあたりももう一度考えてみないといけない。完全にやっつけること自体、ムリなのかもしれない。やっつけるんじゃなくて、発症しないようにうまくつきあうといった、まるで癌に対する接し方と同じなのだが。

 

「無防備」にならざるを得ないのは無知よりも貧困で、不衛生なスラムに最初に蔓延するのは、ロンドンのペスト大流行以来変わらぬパターン。

 

原因がウイルスと判明したとて、実際に食い止められなければ、ペストは悪魔の仕業といっていた時代と大して違わないのではないか。鶏舎とスラムが重なってしまって、管理とか。

 

作者は「経済のグローバル化に見合う国際的公衆衛生制度がない」ことを嘆く。
WHOもユニセフも脆弱化してしまったことを知る。


さらに「巨大製薬会社の」利権がからんでいる。タミフルなどのような治療薬が運良くめっかれば、ビジネスチャンスになるし、ノーベル賞だって夢じゃなくなる。

 

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再読してピンと来た

 

 

「デス博士の島その他の物語」ジーン・ウルフ著を再読してみた。
来た来た、ピンと。なぜ初読のときは、脳内映像が映し出されなかったのだろう。

 

小説を読むときと、人文系を読むときとでは、違う神経を使っているようで、
いままでは割りとうまくモードの切り替えスイッチングが円滑だったんたけど、
最近は、特に小説を読むのがナンギになる場合が往々にしてある。

とりあえず、3編だけ感想メモ。

 

「デス博士の島その他の物語」
本好きの不幸な男の子が主人公で片時も本が手放せず、その世界に入り込むことで
救われたという話(ネタバレか)。似た思いのある人には、じんとくる。
カバーに引用されている

「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ…きみだってそうなんだ」

は、しみる。本は何度でもリセットできるが、人生はリセットできない。
そんなことはないと思うが、リカバリーにはかなり時間がかかる。それに耐えられるかどうかだ。なんて。うわっ、説教くせえ~。

 

「アイランド博士の死」
読んでてボリス・ヴィアンの「心臓抜き」や「赤い草」をイメージした。シュールで観念的なのだが、難解にならずファンタジーに仕立てているあたりは、作者の真骨頂かもしれない。萩尾望都が好きな人なら存外、はまるだろう。人物造詣が秀逸。

 

「死の博士の島」
有効な施術対策が見つからず、見つかるまで冷凍(コールドスリープ)させられた博士の話。陳腐なネタになりがちなんだけど、ちゃんとブンガクに高めてある。ここでも本が出てきて、重要な役目を果たしている。

 

暑いんで、買い込んでおいたカップのシロクマアイスをおやつに食べる。
幼児退行現象?いいえ、夜は発泡酒

 

猫は陽だまりで敷皮状態。


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なぜもっと早く読まなかったんだろう。まだまとまってはいないんだけど、見切り発車で

 

 
『戦争は女の顔をしていない』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著 三浦みどり訳を読む。


ソ連第二次世界大戦独ソ戦)に「百万人をこえる女性が従軍」。
看護師などの後方支援ならわかるが、兵士として最前線に出た。
神風特攻隊で自爆テロのさきがけとなった日本軍でさえ、女性は兵士にしなかったはずなのに。

 

ソ連や東欧などかつての社会主義国家は、女性の社会進出が活発だった。
本来男性の職業とみなされていたブルーカラーにも。
女性に理解があるとか、男女平等、男女同権とか。

 

でもなあ、戦争は違うだろう。
国家は、二枚舌。 たてまえと本音を巧妙に使い分ける。

 

作者は「500人以上の従軍女性」からの聞き書き
訳者あとがきによると「取材を始めたのは1978年」。

 

戦後から30数年余り。歳月が彼女たちの戦争の傷を癒し、
ようやく自分自身を客観視できるようになったから
沈黙を破り、話せるようになったのだろう。

 

戦争における女性って大抵は被害者だが、ソ連の女性兵士たちはいわば加害者でもある。違うな。ナチスドイツの侵攻で母国ソ連の危機。愛国心のなせる貴い行為。
あえて加害者にならざるを得なかったという点では被害者とも言える。

 

男性兵士の戦争体験談やインタビューも、そこそこ興味深く読んできたが、
似た感じつーか類型化した話が多かった。
なんとまあ女性たちの話のバリエーションの豊富なこと。
事実をよくできた小説を読むように読んだ。不謹慎か。

 

何点か引用。で、感想などを。

 

タマーラ・イラリオノヴナ・ダヴィドヴィチ 軍曹(運転手)
射撃訓練が終わって、戻る時。スミレの花をたくさん摘んで小さな花束にして、銃剣につけて帰った。―略―指揮官は小言を言い始めました。「兵隊は兵隊らしく。花摘み娘ではないんだ!」―略―私は運転手。戦闘が終わると、殺された人たちをひろい集めます。みなまだ若い男の子たち。その中に女の子が転がってるのに、ふと気づくことがあります。殺された女の子…みな、シーンと黙り込みます…」

長い髪を切って、スカートから軍服のズボンに。兵士でいる間は女性を捨てようとする。でも、捨てきれない。後半の死屍累々のシーンとのギャップ。


アンナ・ガライ 自動銃兵
私がきれいだった頃が戦争で残念だわ、戦争中が娘盛り。それは焼けてしまった。その後は急に老けてしまったの…」

「私が一番きれいだったとき」茨木のり子の詩と重なる。偶然だが、
「私が一番きれいだったとき」茨木のり子


マリヤ・セミョーノヴナ・カリベルダ 軍曹(通信兵)
私たち努力したわ…「やっぱり女は」と言われたくなかった。男たちよりもっと頑張った。男に劣らないことを証明しなければならなかった。「ちょいと戦ったら逃げ出すささ?」と長いことばかにされていました」

企業に総合職で入社して奮闘、管理職になった女性の発言と共通するような。

 

アナスタシヤ・イワーノヴナ・メドヴェドゥキナ 二等兵(機関銃射手)
―略―私がどういうふうに銃を撃ったかは話せるわ。でも、どんなふうに泣いたかってことは、だめね。それは言葉にならないわ。一つだけ分かっているのは、戦争で人間はものすごく怖いものに、理解できないものになるってこと。それをどうやって理解するっていうの?」

恋愛はご法度だったが、忍ぶ恋などコイバナもいろいろ。
妻子ある上官と恋に堕ちる。上官は戦死するが、その子を身ごもる。
敵国ナチスドイツの将校と恋した猛女も。

 

クラヴヂア・S  狙撃兵
―略―狙撃兵になりました。銃を撃たなければいけない、と言われて、撃ちました。上手でした。栄光勲章が二つにメダルは四個。戦地にいた三年間で。―略―結婚は早かったんです。戦後一年です。私が働いていた工場のエンジニアと。―略―(子供は男児と女児。女児に障害があった)(夫の発言)「まともな女なら戦争なんか行かないさ。銃撃を覚えるだって?だからまともな赤ん坊を産めないんだ」―略―これは私の罪なんだって…」

モラハラ(モラルハラスメント)夫の典型。

他の人のインタビューで戦場で恋仲になった女性。男性は戦争経験者の女性ではない、違う女性と結婚したが、離婚した。やっぱり、お前が良かったと。

 

「女の顔をしていない」のは軍隊や戦争だけじゃない。
政治も会社も。そんな野郎どものガチガチなホモソーシャルな世界に組しない
女性のしなやかさ、したたかさ。生存への強さを感じる。

 

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川端康成、未完の「最後の連載小説」がすさまじくて

 

 

『たんぽぽ』川端康成著を読んだ。

 

未完の「最後の連載小説」(雑誌『新潮』)とかで、読みはじめた。すげえ。
のっけから気ちが○や気ちが○病院のオンパレード。

 

眼前の人の身体が見えなくなるという「人体欠視症」なる気の病に罹った若い女性は精神病院に入院する。彼女と恋人の男性とその娘の母親の物語。


純愛物語だとは思うのだが、構築されている世界のパースが最初から歪んでいるように見えてならない。性と死、狂気と正常の境界線などテーマは、そうなんだけど、そんなことよりも登場人物たちの会話や行動が気になって仕方がない。


たとえばヒロインが入院先の病院で鐘を衝くシーンなど、シチュエーションが突飛、シュール過ぎてしまって、徳南晴一郎の怪奇漫画やしりあがり寿のシリアスな漫画をイメージしてしまった。

 

病院のそばにある堤防で咲き乱れるたんぽぽの花。それさえも奇矯に思える。

 

乙女系小説や病気・貧乏など不幸が主題だった勃興時の少女漫画も彷彿とさせる。
そう言えば、川端康成って少女小説も書いていたはずだし。

 

川端の『眠れる美女』や『片腕』もぶっとんだフェティッシュ小説だったが。
それにインスパイアされて、渋谷あたりのニュー風俗で団塊世代から上の男性を対象にした添い寝クラブでもはじめれば案外ウケるかもとか、ノーベル文学賞受賞作家を冒涜しかねない発言。

 

川端康成若かりし頃の写真で、鳥や剥製を並べて納まった薄気味悪い写真を昔見たことがある。記憶は定かではないが。この本の解説を書いている秋山駿も川端の特徴ある、あのギョロリとした目を取り上げていたが、そのときの目は猛禽類の目のように鋭く、異様だった。いま検索したら似たような構図の画像があった。

 

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貸本漫画家だった徳南晴一郎の怪奇漫画



 

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川端康成は上野桜木町でたくさんの犬や鳥を飼っていた


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デジャビュ―『<野宿者襲撃>論』から『排除の現象学』へ

 

 

 

 
『<野宿者襲撃>論』生田武志著を読み出す。
村上春樹の『パン屋襲撃』に似たタイトルだが、きわめて今日的なテーマでもあり、
日雇労働者・野宿者支援活動」など、現場からの事実から積み重ねられた
既成概念、固定観念にとらわれない作者のロジックには、感心させられる。

 

「野宿者」を襲うティーンエイジャーたち。公園(公共の空間)にいるからムカつく。
働こうとしないからムカつく。いてもいなくてもいいが、どちらかっつーと、害悪だからムカつく。


ただし、こういう気持ちはぼくにもあるし、たぶんあなたにもある。大小の違いはあるけれど。それが子どもたちにも伝染していく。

 

そして「野宿者」を殺してから、口々に「殺す気はなかった」。紋切り型の答はマニュアルのようで、動機をたずねてみたとて事件の問題の解決にはたどり着けないと作者は記述している。動機がないと取調べが進まないから、調書が取れないと審議にかけられないから、むりやり過去の判例を当てはめてしまうのかな。

 

この本を読んでいてぱっと浮かんだのはキューブリックの『時計じかけのオレンジ』だ。主人公が「雨に歌えば」を歌いながらの暴力シーンは、そら恐ろしかったが、そのシーンが「野宿者襲撃」シーンとダブる。動機も意味もない、理性も常識もない、原初的暴力。

 

デジャビュ。どっかで読んだことがあるぞ、かなり前に。
まったく整頓されていない場末のうらぶれた古書店のような書棚を覗いたら運良くめっかった。


『排除の現象学赤坂憲雄著だ。ぼくは洋泉社の単行本で持っているが、現在はちくま学芸文庫で刊行されている。いまや東北学や柳田邦男の権威となりつつある作者の33歳のときの本。1986年刊行だからバブルがはじまったあたりか。

 

現代社会で排除されている「異人」たちについて書かれた本。
老人、子ども、浮浪者、宗教(「イエスの方舟」)、ニュータウン
生田は「野宿者」も彼らを襲うティーンエイジャーも同じ「ホームレス」で括っているが、それが赤坂のいうところの「異人」なのだ。

 

そうか、結構、このあたりにぼくは感化されて、いまに至るわけだ。

で、作者がこの本の「浮浪者/ドッペルゲンガー殺しの風景-横浜浮浪者襲撃事件を読む」の章の扉でバタイユのアフォリスムを引用しているが、あまりにも素晴らしいので引用の引用。

「排泄物はその悪臭のために私たちの胸をむかつかせるのだ、と私たちは考える。しかし、排泄物がもともと私たちの嫌悪の対象となっていなかったら、果たしてそれは悪臭を放っていただろうか。…嫌悪と嘔気の領域は、全体的に見て、この教育の一つの結果なのだ」(バタイユ『エロティシズム』澁澤龍彦訳)

ほんとうにバタイユは多量なら毒になりかねないが、少量なら薬だと勝手に納得する。

 

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人工知熊に乗りた-い

 

どーなつ

どーなつ

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「クラゲ」(『クラゲの海に浮かぶ舟』)、「カメ」(『かめくん』)、「ザリガニ」(『ザリガニマン』)ときて、今度は熊だ。でも、題名は『どーなつ』だけど。この物語の世界は、ポスト・ウォー。どんな戦争だったかは述べられてはいないが、しかし、その戦争による喪失感、哀しみが全体に漂っている。それこそぽっかり空いているドーナツの穴のように。

 

いきなりわかりにくいたとえ。ぼくたち地球人から見たら火星人は異星人だけど、火星人から見たらぼくたちは紛れもなく異星人だろう。こういうアプローチが作者はひじょうにうまい。

 

全部で10の話からの物語なのだが、百貨店の屋上、人工知能の熊で、「人工知熊」(「能」の字の下にテンを4つつけると、「熊」になる)、スタッフの間では「電気熊」と呼ばれているが。海馬や脳ミソを飼っている水族館の飼育係の話、アメフラシとコミュニケーションすることができ、落語を趣味で演ずる女性研究員…。

 

特に電気熊は、「脳ミソによる直接制御」なので、乗り手との一体感が必要だし、当然、馴れてくれば、カスタマイズされていくわけだし。電気熊たちは、夜中にこっそりと乗り手から得た情報を交換して進化しているらしい。外見はかわいいのに、結構なかなかの能力を秘めている。「パトレイバー」というよりも「エヴァンゲリオン」に近いのかな。でも、見た目はかわいい。どうやら主人公は、電気熊で異星で戦ったらしいのだが。

 

熊といえば全然関係ない話だけど、相変わらずテディベアは人気があるようで、先だってのイベントも大盛況、自称テディベア作家は、ごまんといるようだ。もうひとつ関係ない話すると、熊と相撲をとって足払いで勝った秋田県の山菜取りのオジサン談によると、熊は二本足で立っているときは、意外と弱いそうだ。

 

ついでにおまけで関係ない話をすると、自称熊チャン体型の某前長野県知事も外見とは違ってかなりしなやかというよりはしたたかで、外見にだまされちゃあいけない。

 

はじめて見るのに、いつか見た光景。ノスタルジックなのに、近未来。そんな作者の紡ぎ出す精巧なジオラマのような世界に、いつの間にやら引きずりこまれていく。たぶん、それは、センチメンタリズムなのだろうが、どうもその一言だけではすまされない隠し味が入っている。

 

読んでから、しばらくボケーっとしていた。願わくばぼくも、人工知熊の中に入って操縦してみたい。コクピットからの眺めはどんなものだろう。

 

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