『<野宿者襲撃>論』生田武志著を読み出す。
村上春樹の『パン屋襲撃』に似たタイトルだが、きわめて今日的なテーマでもあり、
「日雇労働者・野宿者支援活動」など、現場からの事実から積み重ねられた
既成概念、固定観念にとらわれない作者のロジックには、感心させられる。
「野宿者」を襲うティーンエイジャーたち。公園(公共の空間)にいるからムカつく。
働こうとしないからムカつく。いてもいなくてもいいが、どちらかっつーと、害悪だからムカつく。
ただし、こういう気持ちはぼくにもあるし、たぶんあなたにもある。大小の違いはあるけれど。それが子どもたちにも伝染していく。
そして「野宿者」を殺してから、口々に「殺す気はなかった」。紋切り型の答はマニュアルのようで、動機をたずねてみたとて事件の問題の解決にはたどり着けないと作者は記述している。動機がないと取調べが進まないから、調書が取れないと審議にかけられないから、むりやり過去の判例を当てはめてしまうのかな。
この本を読んでいてぱっと浮かんだのはキューブリックの『時計じかけのオレンジ』だ。主人公が「雨に歌えば」を歌いながらの暴力シーンは、そら恐ろしかったが、そのシーンが「野宿者襲撃」シーンとダブる。動機も意味もない、理性も常識もない、原初的暴力。
デジャビュ。どっかで読んだことがあるぞ、かなり前に。
まったく整頓されていない場末のうらぶれた古書店のような書棚を覗いたら運良くめっかった。
『排除の現象学 』赤坂憲雄著だ。ぼくは洋泉社の単行本で持っているが、現在はちくま学芸文庫で刊行されている。いまや東北学や柳田邦男の権威となりつつある作者の33歳のときの本。1986年刊行だからバブルがはじまったあたりか。
現代社会で排除されている「異人」たちについて書かれた本。
老人、子ども、浮浪者、宗教(「イエスの方舟」)、ニュータウン。
生田は「野宿者」も彼らを襲うティーンエイジャーも同じ「ホームレス」で括っているが、それが赤坂のいうところの「異人」なのだ。
そうか、結構、このあたりにぼくは感化されて、いまに至るわけだ。
で、作者がこの本の「浮浪者/ドッペルゲンガー殺しの風景-横浜浮浪者襲撃事件を読む」の章の扉でバタイユのアフォリスムを引用しているが、あまりにも素晴らしいので引用の引用。
「排泄物はその悪臭のために私たちの胸をむかつかせるのだ、と私たちは考える。しかし、排泄物がもともと私たちの嫌悪の対象となっていなかったら、果たしてそれは悪臭を放っていただろうか。…嫌悪と嘔気の領域は、全体的に見て、この教育の一つの結果なのだ」(バタイユ『エロティシズム』澁澤龍彦訳)
ほんとうにバタイユは多量なら毒になりかねないが、少量なら薬だと勝手に納得する。