『戦争は女の顔をしていない』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著 三浦みどり訳を読む。
ソ連は第二次世界大戦(独ソ戦)に「百万人をこえる女性が従軍」。
看護師などの後方支援ならわかるが、兵士として最前線に出た。
神風特攻隊で自爆テロのさきがけとなった日本軍でさえ、女性は兵士にしなかったはずなのに。
ソ連や東欧などかつての社会主義国家は、女性の社会進出が活発だった。
本来男性の職業とみなされていたブルーカラーにも。
女性に理解があるとか、男女平等、男女同権とか。
でもなあ、戦争は違うだろう。
国家は、二枚舌。 たてまえと本音を巧妙に使い分ける。
作者は「500人以上の従軍女性」からの聞き書き。
訳者あとがきによると「取材を始めたのは1978年」。
戦後から30数年余り。歳月が彼女たちの戦争の傷を癒し、
ようやく自分自身を客観視できるようになったから
沈黙を破り、話せるようになったのだろう。
戦争における女性って大抵は被害者だが、ソ連の女性兵士たちはいわば加害者でもある。違うな。ナチスドイツの侵攻で母国ソ連の危機。愛国心のなせる貴い行為。
あえて加害者にならざるを得なかったという点では被害者とも言える。
男性兵士の戦争体験談やインタビューも、そこそこ興味深く読んできたが、
似た感じつーか類型化した話が多かった。
なんとまあ女性たちの話のバリエーションの豊富なこと。
事実をよくできた小説を読むように読んだ。不謹慎か。
何点か引用。で、感想などを。
「タマーラ・イラリオノヴナ・ダヴィドヴィチ 軍曹(運転手)
射撃訓練が終わって、戻る時。スミレの花をたくさん摘んで小さな花束にして、銃剣につけて帰った。―略―指揮官は小言を言い始めました。「兵隊は兵隊らしく。花摘み娘ではないんだ!」―略―私は運転手。戦闘が終わると、殺された人たちをひろい集めます。みなまだ若い男の子たち。その中に女の子が転がってるのに、ふと気づくことがあります。殺された女の子…みな、シーンと黙り込みます…」
長い髪を切って、スカートから軍服のズボンに。兵士でいる間は女性を捨てようとする。でも、捨てきれない。後半の死屍累々のシーンとのギャップ。
「アンナ・ガライ 自動銃兵
私がきれいだった頃が戦争で残念だわ、戦争中が娘盛り。それは焼けてしまった。その後は急に老けてしまったの…」
「私が一番きれいだったとき」茨木のり子の詩と重なる。偶然だが、
「私が一番きれいだったとき」茨木のり子
「マリヤ・セミョーノヴナ・カリベルダ 軍曹(通信兵)
私たち努力したわ…「やっぱり女は」と言われたくなかった。男たちよりもっと頑張った。男に劣らないことを証明しなければならなかった。「ちょいと戦ったら逃げ出すささ?」と長いことばかにされていました」
企業に総合職で入社して奮闘、管理職になった女性の発言と共通するような。
「アナスタシヤ・イワーノヴナ・メドヴェドゥキナ 二等兵(機関銃射手)
―略―私がどういうふうに銃を撃ったかは話せるわ。でも、どんなふうに泣いたかってことは、だめね。それは言葉にならないわ。一つだけ分かっているのは、戦争で人間はものすごく怖いものに、理解できないものになるってこと。それをどうやって理解するっていうの?」
恋愛はご法度だったが、忍ぶ恋などコイバナもいろいろ。
妻子ある上官と恋に堕ちる。上官は戦死するが、その子を身ごもる。
敵国ナチスドイツの将校と恋した猛女も。
「クラヴヂア・S 狙撃兵
―略―狙撃兵になりました。銃を撃たなければいけない、と言われて、撃ちました。上手でした。栄光勲章が二つにメダルは四個。戦地にいた三年間で。―略―結婚は早かったんです。戦後一年です。私が働いていた工場のエンジニアと。―略―(子供は男児と女児。女児に障害があった)(夫の発言)「まともな女なら戦争なんか行かないさ。銃撃を覚えるだって?だからまともな赤ん坊を産めないんだ」―略―これは私の罪なんだって…」
他の人のインタビューで戦場で恋仲になった女性。男性は戦争経験者の女性ではない、違う女性と結婚したが、離婚した。やっぱり、お前が良かったと。
「女の顔をしていない」のは軍隊や戦争だけじゃない。
政治も会社も。そんな野郎どものガチガチなホモソーシャルな世界に組しない
女性のしなやかさ、したたかさ。生存への強さを感じる。