きみにメロメロ(Kimi Knee Mero Mero)

 

  

夏なんで、エリック・ロメールの映画『クレールの膝』でも見てヴァカンス気分ざんす。

 

ある女性と生きてゆこうと決めた男性が、別の女性と出会い心動かされる姿を描く『
六つの教訓話』の第五作目。

 

舞台はスイスの湖畔にある高級別荘。結婚を控えた男(ジャン・クロード・ブリアリ)
は、たぶん、かつて恋仲にあった作家の女性の別荘に、モーターボートで足繁く通っ
てくる。

 

そこで、はじめは実の娘に興味をおぼえ、デートなんかに誘う。それは母公認の恋愛
テストのようなものなのだが。ところが、もう一人の娘(亡くなった夫の連れ子)、
クレール(ベアトリス・ロマン)があらわれるやいなや、アウラを感じて、年甲斐も
なくメロメロになる。

 

エリック・ロメールは少女の微妙な心理描写を得意とする監督で、夏、ヴァカンス、
少女の恋という3点セットとマシンガンのようなセリフの字幕スーパーで、スクリー
ンを見つめるぼくを睡魔に誘いかけ、いっしょに見に行った人から軽蔑されるという
苦い思い出がある。

 

過剰なセリフというと、金井美恵子の『噂の女』は、エリック・ロメールにインスパ
イアされて書いたというインタビューが随分前の『群像』か『新潮』に載っていた。
やっぱりね。

 

エリック・ロメールの映画で、ヒゲだらけの中年男が主役というのは珍しく、若い女
性に虜になるというある種、恋愛のパターンにのっとった話の展開は、どこかクラシ
ックな文学の名作を読んでいる気分にさせた。たとえば田山花袋の『蒲団』とかね…。
なぜ日本文学なのか、説明不能

 

のびやかな少女の肢体、「若さに勝る化粧品はない」という格言どおり(おいおい、
そんなのない、いま、デッチあげた)、クレールが魅力的なのは当然なのだが、二人
の女の子のボーイフレンドたちも、ひと昔前の少女漫画の美少年キャラ、ジャニーズ
系。自分勝手で、ある意味粗暴で、女の子を振り回すあたりは、永遠のティーン像っ
てとこ。

 

伊丹十三のエッセイ『女たちよ』で、十代の男女に揃いの浴衣を着せて、線香花火をさ
せ、それを後ろから微笑ましく眺める中年男になりたいとかいう話が出ていた、うろ覚
えなのだが。そんな気分でいた男なのだが、クレールの出現により、節度と良識はもろ
くも崩壊してしまう。

 

結局は、クレールに対して、若者と、いやそれ以下かも、卑怯な戦法に出ざるを得なか
ったインテリ中年男に、どっぷりと感情移入してしまった。どさくさまぎれに恋焦がれ
クレールの膝をさわる。膝ってのが、ビミョー。膝フェチ、恋の寸止め状態か。

 

字幕を追いかけながら、会話の妙を楽しんだ。クレールの膝は、すてきだった。

夏の湖、緑、光、素肌などカメラワークが抜群にいい。ヌーヴェルバーグオリジナル
メンバーのエリック・ロメールは、少女ばかりかトリュフォーばりに、恋する中年男
を撮るのもうまいや。

(1970年製作 フランス)

 

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もみほぐされた言葉が頭と心をもみほぐす

 

 

『言葉をもみほぐす』赤坂憲雄著 藤原辰史著を読む。

 

民俗学者歴史学者との往復書簡集。対談ではなく手紙のやり取り。
お互いの表情などはわからないが、文面からの言葉を読み、考える。
ほどよい距離感というか、読んでいて二人がシンクロしていて心地よい。

 

こんなところが印象に残った。

 

「(赤坂)ほんとうは、自分で喋るよりも、他者の声に耳を傾けることのほうが好きですね。―略―山形で過ごした20年足らずの歳月に、数百人の人々のライフ・ヒストリーを聞き書きしています。―略―書き言葉もまた、それにつれて大きな変容を遂げざるをえませんでした」

赤坂の父親が福島県出身とは知らなかった。「東北学」を提唱していたのは浅く知ってはいたが。

「(赤坂)わたしたちはいま、災間の時代を生かされています。巨大な災害のあとを生きているのではなく、また、いつとが知れず、しかし確実に近い将来起こるはずの大きな災害までの、ほんのつかの間の猶予期間を生かされている、ということです」

東日本大震災、新型コロナウィルス。「災間の時代」ね。

 

「(赤坂)宮崎駿監督のアニメ映画『風の谷のナウシカ』(1984年)には、「汚れているのは、土なんです」という印象的な言葉が、ナウシカ自身によって語られていました。―略―福島県内のゴルフ場であったか、堆積した放射能性物質をめぐって東電を訴えたのにたいして、放射能性物質は「無生物」であるから責任を問うことはできないと、却下されたのです」

法事で郡山へ帰省したとき、いたるところで除染作業がされていた。到底すべては除染できないのだが。元請けに中抜きされて地元の建設会社はどれだけの利益があったのだろう。
赤坂の著作は『異人論序説』と『排除の現象学』にシビれた。最近のものは読んでいない。まずは『ナウシカ考』、読もっと。


「(藤原) ベンヤミンは歴史の屑拾いを自称した、と『分解の哲学』の書評で野家啓一さんがお書きになってくださり、小躍りしました。ベンヤミンの真似をして、私も歴史に打ち捨てられたモノを拾って歩きたい。歴史学の作業とは、自分にはどうしようもない大きな力の下で、泥に打ち捨てられた人やモノたちを、史料の上で確認して、言葉にほぐすことで、その異形な人やモノが現代社会を生きるあなたの体の一部であることを、宗教や道徳とは別の次元で証明することだと思うのです」

そうか。『ナチスのキッチン』も、『分解の哲学』も、「歴史の屑拾い」という視座から書かれているんだ。納得。貝塚だって考古学には貴重なものだが、元は太古人のゴミ捨て場だったわけだし。

 

「(藤原) もうコロナの前には戻れないことに多くの人たちが気づき始めています。―略―こんな時代は、この世の生を狂い歌う叙事詩を聴きたいのですが、残念ながらその名手だった石牟礼さんはあの世にいて、私はあのように狂気を歌う能力を持ちません。ただ、ひたすらに、未曽有のパンデミックと大失業時代に直面して、これまでの社会の矛盾が白日のもとに晒されたいま、当時を体験した人びとの声を聞き、しれをまとめていくことしかできません」

なんとかの一つ覚えのような「安心・安全」。医療崩壊


「(赤坂) コロナという災禍のなかでは、見えない棄民政策が推し進められています。新型コロナウィルスが天災か人災かが知らず、いや、あきらかに複合的な「文明災」(梅原猛)だと思いますが、藤原さんが指摘されているように、弱き人々が直撃されています」

棄民政策」。ナイスな表現。自宅療養なんて放置、見殺しだと思う。

 

新井卓の銀板写真が花を添える。


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奇怪な神・機械が「最大の戦争」を引き起こす

 

 

『絶対製造工場』カレル・チャペック著 飯島周訳を読む。

 

「大企業メアスの社長ボンディ」は、画期的な発明を売却したいという新聞広告を目にする。依頼主は「マレク技師」。大学の同級生だった。開発したのはカルブラートルと名付けられた機械。

マレク曰く、

「ぼくの完全カルブラートルは、完全に物質を分解することで、副産物を創り出す―純粋な、束縛されぬ絶対を。化学的に純粋な形の神を。言ってみれば、一方の端から機械的なエネルギーを、反対の端から神の本質を吐き出すのだ。水を水素と酸素に分解するのとまったく同じさ。ただ、それよりおそろしく大規模なだけだ」

ボンディは、カルブラートルの発明を買い取って量産化する。確かに国や資本家にとっては都合の良い夢のような機械だった。さまざまな産業で導入が進む。たとえば某繊維工場が「ボイラーの代わりにカルブラートル一基を据え付けた」。すると「自動紡績機と織機が勝手に動きはじめる」。ノンストップで織り続ける。労働者は不要となる。ここまでは良かったのだが、過剰生産で織物の価格は暴落する。絶対によるカルブラートルの暴走はクレームの嵐となってボンディの会社に来る。

 

ボンディはドイツやフランス、イギリスへカルブラートルを送り込んで絶対でめちゃくちゃにすることを目論む。

 

山小屋でリタイヤ生活を楽しんでいるマレクの元へボンディが訪ねる。カルブラートルの功罪、絶対について発明者に再度問う。けど無駄足だったかも。

 

やがて絶対はカトリック教会に受け入れられる。そこから話がドタバタしだす。キリスト教イスラム教との宗教戦争が勃発。やがてカルブラートルを導入した国々は絶対=神のしわざで原理主義に洗脳され、本格的な戦争、世界大戦となる。といってもアイロニカルな笑いが行間に地雷のように埋まっているが。

 

この本は第一次世界大戦後に書かれたのでその当時や近未来への不安などが色濃く反映しているのだろう。東洋の島国日本も良い意味でも悪い意味でも世界から脚光を浴びだし、怪しげな日本人将校も出て来る。

 

歴史改編ではなくて未来を予測した小説。第ニ次世界大戦悪い方で当たってしまったが。さらにイスラム主義組織タリバンアフガニスタン制圧などカルブラートルの為せる御業か。

 

日本軍がアメリカ西海岸へ上陸する短いニュースなどは、フィリップ・K・ディックも真っ青。

 

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AIはどこまで来ているんだろう

 

 

ポロック生命体』 瀬名秀明著を読む。
久しぶり。一時期、作者のロボティクス関連本を読み漁った。
それ以来かも。AIがテーマの4つの短篇集。

実際、AIはどこまで進化している?AIって本当に人間を超えるの?
読めば、AIの最新ネタを小説でわかりやすく面白く知ることができる。
このあたりは作者の真骨頂だろう。


以下短いあらすじなり、感想なりを。

 

『負ける』
「AIの将棋ソフト「舵星」が永世名人に勝った」。それはAIの能力が人間より優れていることなのだろうか。ここに出て来る将棋を指すロボットアーム「片腕」を実物で見てみたい。この一文が深い。

「人間が(人工知能に)負けてゆくこの瞬間に見える風景は、次に人工知能が負けるとき、きっとかけがえのない指針になるだろう」

はやポストAIの時代を示唆している。

 

『144C』
新人作家とメンターのやりとりから「物語をつくる人工知能」の歩みが述べられる。

AIでオリジナリティのある小説はつくれるのか。たとえば過去のあらゆる作品をビッグデータ化、そこから言葉をチョイスして売れそうなストーリーをAIがつくれるようになったとしたら。しかも機械ゆえ人間の作家のような老いはないと。劣化はあるかもしれないが。作家もどきだったAIが作家になる日はいつ来るのだろう。

 

きみに読む物語

「なぜ私たちは本を読んで感動するのだろうか―略―それを科学的に説明することはできるだろうか」

AIを使ってその感動を数値化するという話。「EQ(感情指数)」のような。それが共感指数SQ。ベストセラーは書き手と読み手とのSQのベストマッチングから生まれるそうだ。新しい尺度SQで古今東西の名作が数値化される。

 

ポロック生命体』
何やら新しい用語かと思ったら、ジャクソン・ポロックポロックだった。「ポロック」は、元大学でAIを研究していた石崎が起業した会社名。ポロックの絵をCGで再現する研究をしていた。会社ではかつての高名な画家、光谷一郎の晩年の「創作活動」に協力。傑作と評価されているが、実は、サイン以外はすべてAIが光谷の絵を描いていた。ポロックは、アクションペインティングで時代の寵児となった。
はたしてAIが描いた作品は芸術と呼べるのか。


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ヘンリー・ジェイムズの長篇小説デビュー作。そのできばえ、完成度に舌を巻く

 

 


犬や猫が降る雨(It's raining cats and dogs)という英語の言いまわしを思い出すほどの雨。

 

『ロデリック・ハドソン』ヘンリー・ジェイムズ著 行方昭夫訳を読む。
長篇小説デビュー作。そのできばえ、完成度に舌を巻く。
新訳もバッチグーでとても「1875年に発表」された作品とは思えない。

 

核となっているのは、男女の4角関係。
まずはローランド。まあまあの資産家の家に生まれた彼は父親に金持ちのボンボンとは真逆、厳しく育てられる。
父親が亡くなるが、遺言により財産の大半は寄付となる。
それでも一生遊んで暮らせるくらいの資産を手にする。
ローランドは教養豊かなモラリスト。芸術にも造詣が深いが、あくまで鑑賞する側。


そんな彼のもとに現われたのがイケメンのロデリック。
いやいや法律事務所に勤めていたが、彼の趣味でつくる彫刻に天賦の才を感じたローランド。パトロン(パトロネージ)として一緒に芸術の本場・イタリアへ修行に行くことを持ちかける。渡伊費用はイタリアで作った彫刻の代金で差し引くと。


うかれるロデリック。藪から棒でロデリックの母親は、ローランドを詐欺師然と見る。
母親の世話をしているメアリ。その慎ましやかな美しさに惹かれるローランド。
若きアーチスト気質のロデリックは、優越感と劣等感が入り混じった性格。
イタリア行の船でメアリと婚約したことを話す。

 

ローマなどで日々美術鑑賞。遺跡を散策。
ローランドは見聞を高め、ロデリックは創作意欲を高める。
ロデリックの彫刻は高い評価を得る。
二人に現われた母娘。娘はミス・ローマクラスの美女・クリスチーナ。
母親は娘を金持ちの貴族に嫁がせることが生きがい。
クリスチーナは玉の輿狙いかと思いきやクリスチーナは猫気質の気まぐれガール。


メアリという婚約者がいながら、同じく気まぐれなロデリックは惚れてしまう。

やきもきするローランド。
天才ゆえの常識が通じないもどかしさ。二人にすき間風が吹き出す。
創作活動にも身が入らないロデリック。ギャンブルや女性に手を出す。
アメリカから母親とメアリーを呼び出す。

カサマシマ公爵からの求婚を躊躇していたクリスチーナ。
ロデリックからの愛を受け入れるかに見えたが、結局は公爵と結婚する。

 

裏切られた思いのロデリック。メアリーを案じるローランド。
息子の失意をイタリアに連れて来たローランドのせいだと誹(そし)る母親。

 

ローランドたちはフィレンツェからスイスへ。
スイスのリゾート地で偶然、カサマシマ公爵夫妻と出会う。
何たる運命の悪戯。

人生のほろ苦さをこれでもかと味わえる、実に堂々たる格調高い物語。

 

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かわいい、こわい、かわこわい

 

 

マイマイとナイナイ』皆川博子作 宇野亜喜良絵 東雅夫編を読む。

 

作者の短篇、掌編小説が素晴らしいのは知っていた。
こんな絵本を出していたとは。
しかも画家が宇野亜喜良
バタくさい世界が、どんぴしゃり(連続死語か)。

 

ダークファンタジーというよりも
かわいい、こわい、かわこわい。

 

マイマイという少女に、ある日、小さな弟・ナイナイができた。
ナイナイはマイマイ(カタツムリ)の背に乗っていた。
両親が気がつかないほど小さい。彼女は胡桃の殻に弟を入れた。

 

「白い馬に蹴られて右目が壊れた」。
マイマイは眼の代わりに胡桃を入れた。

 

胡桃の中のナイナイは幽閉されたのか。
彼は怖ろしい夜の夢を引き込む。
当然、マイマイも怖ろしい夜の夢を見る。

 

ナイナイは夜の夢に胡桃の殻から解放される。
ところが、マイマイは夜の夢に胡桃の殻に心を幽閉される。

 

マイマイのこころは胡桃の殻に乗って
あてどもない救いへの旅に出る。

 

一種の貴種流離譚風。もしくは、皆川博子版『眼球譚』といってもいい。

オスカー・ワイルドの『幸福な王子』は青いサファイヤでできた眼を貧しい人々に差し出した。

アーモンドアイ、切れ長の目はアジアンビューティの象徴。

 

ふと、澁澤龍彦の『胡桃の中の世界』を思い出した。

 

作者の100字小説集とか読みたいなあ。

 

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作家大爆発

 

 

日本文学盛衰史高橋源一郎著を読む。

『一億三千万人のための小説教室』のレビューの続編なんで、興味のある人は、面倒でもそこからお読みいただけると幸いです。

 

と、いうわけで評判の高い本作を手にすることにした。あれよあれよという間に、読んでしまった。ほんとはしなきゃいけないことが山のようにあるんだけど。

 

本作は、日本近代文学の揺籃期を描いた小説。だけど、そこはポップ文学の第一人者である作者だけに、いままで国語の授業や日本文学の講義で習ったものとはひと味もふた味も違っている。たとえば、いま、ぼくたちがこうして書いている文章は言文一致体というが、その創始者といわれる二葉亭四迷や山田美妙の苦悩をかなり、リアルに再現している。

 

日本語でロックは表現できるか。それで大激論となった日本のロックの黎明期と似てなくもない。

 

新しい日本文学を樹立しようと意気込む作家たち。ドストエフスキーなど当時の世界の最先端文学を翻訳しながら、どのように自作に採り入れようかと躍起になる作家もいれば、オリジナリティの創作に励む作家もいる。

 

国木田独歩田山花袋らに代表される自然主義文学はオールドファッションだと当時勃興しつつある危険とみなされた社会主義思想に強い共感を抱いていた石川啄木。石川が校正係をしていた朝日新聞社に出入りしていた夏目漱石との交流。森鴎外島崎藤村などキラ星のごとく輝く明治時代の文豪たちが本作の中では、いきいきと動き回っている。

 

樋口一葉が登場してくるシーンは、王道をいく青春小説仕立てになっていて、-村上春樹パスティーシュの如し-ふだんはひねくれた文学ファンならずとも、そのまぶしい青春ぶりにテレることなく賛辞してしまうはず。

 

伝言ボックスを愛用して、渋谷が大好き、アルバイトでブルセラショップの店長をしているな石川啄木やアダルトビデオ監督に挑戦する田山花袋など、作者は、ケータイ、Web、ルーズソックスの女子高校生など現代のトレンドを巧みに織りまぜながら、ポップにユーモラスに展開している。

 

ある詩人のサイトの掲示板の書き込みあたりが実にうまくて笑える。違和感があるかというとなぜかそれがまったくといっていいくらいない。なぜならば古色蒼然たる世界ではなくアップ・トゥ・デートな世界をとらえようとしているからだ。

 

坪内祐三あたりがしきりに明治時代の文学をプッシュしているのは、この時代の多士済々な作家たちや作品、いずれもが爆発的なエネルギーにあふれているからなのだろう。さしずめ明治時代は、かつていろんな生物がいちどきに大量発生したカンブリア期のようなものだ。

 

メタフィクション、メタメタフィクションと、もうメタメタ…。

 

日本文学史としても読めるし、ある意味、私小説的部分(作者のご母堂のことやラストに出て来る実子に対しての思いは、まるっきし無頼派作家のよう)もあるしと、かなり味わい深い、読み応えのある小説である。

 

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