もみほぐされた言葉が頭と心をもみほぐす

 

 

『言葉をもみほぐす』赤坂憲雄著 藤原辰史著を読む。

 

民俗学者歴史学者との往復書簡集。対談ではなく手紙のやり取り。
お互いの表情などはわからないが、文面からの言葉を読み、考える。
ほどよい距離感というか、読んでいて二人がシンクロしていて心地よい。

 

こんなところが印象に残った。

 

「(赤坂)ほんとうは、自分で喋るよりも、他者の声に耳を傾けることのほうが好きですね。―略―山形で過ごした20年足らずの歳月に、数百人の人々のライフ・ヒストリーを聞き書きしています。―略―書き言葉もまた、それにつれて大きな変容を遂げざるをえませんでした」

赤坂の父親が福島県出身とは知らなかった。「東北学」を提唱していたのは浅く知ってはいたが。

「(赤坂)わたしたちはいま、災間の時代を生かされています。巨大な災害のあとを生きているのではなく、また、いつとが知れず、しかし確実に近い将来起こるはずの大きな災害までの、ほんのつかの間の猶予期間を生かされている、ということです」

東日本大震災、新型コロナウィルス。「災間の時代」ね。

 

「(赤坂)宮崎駿監督のアニメ映画『風の谷のナウシカ』(1984年)には、「汚れているのは、土なんです」という印象的な言葉が、ナウシカ自身によって語られていました。―略―福島県内のゴルフ場であったか、堆積した放射能性物質をめぐって東電を訴えたのにたいして、放射能性物質は「無生物」であるから責任を問うことはできないと、却下されたのです」

法事で郡山へ帰省したとき、いたるところで除染作業がされていた。到底すべては除染できないのだが。元請けに中抜きされて地元の建設会社はどれだけの利益があったのだろう。
赤坂の著作は『異人論序説』と『排除の現象学』にシビれた。最近のものは読んでいない。まずは『ナウシカ考』、読もっと。


「(藤原) ベンヤミンは歴史の屑拾いを自称した、と『分解の哲学』の書評で野家啓一さんがお書きになってくださり、小躍りしました。ベンヤミンの真似をして、私も歴史に打ち捨てられたモノを拾って歩きたい。歴史学の作業とは、自分にはどうしようもない大きな力の下で、泥に打ち捨てられた人やモノたちを、史料の上で確認して、言葉にほぐすことで、その異形な人やモノが現代社会を生きるあなたの体の一部であることを、宗教や道徳とは別の次元で証明することだと思うのです」

そうか。『ナチスのキッチン』も、『分解の哲学』も、「歴史の屑拾い」という視座から書かれているんだ。納得。貝塚だって考古学には貴重なものだが、元は太古人のゴミ捨て場だったわけだし。

 

「(藤原) もうコロナの前には戻れないことに多くの人たちが気づき始めています。―略―こんな時代は、この世の生を狂い歌う叙事詩を聴きたいのですが、残念ながらその名手だった石牟礼さんはあの世にいて、私はあのように狂気を歌う能力を持ちません。ただ、ひたすらに、未曽有のパンデミックと大失業時代に直面して、これまでの社会の矛盾が白日のもとに晒されたいま、当時を体験した人びとの声を聞き、しれをまとめていくことしかできません」

なんとかの一つ覚えのような「安心・安全」。医療崩壊


「(赤坂) コロナという災禍のなかでは、見えない棄民政策が推し進められています。新型コロナウィルスが天災か人災かが知らず、いや、あきらかに複合的な「文明災」(梅原猛)だと思いますが、藤原さんが指摘されているように、弱き人々が直撃されています」

棄民政策」。ナイスな表現。自宅療養なんて放置、見殺しだと思う。

 

新井卓の銀板写真が花を添える。


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