川端康成、未完の「最後の連載小説」がすさまじくて

 

 

『たんぽぽ』川端康成著を読んだ。

 

未完の「最後の連載小説」(雑誌『新潮』)とかで、読みはじめた。すげえ。
のっけから気ちが○や気ちが○病院のオンパレード。

 

眼前の人の身体が見えなくなるという「人体欠視症」なる気の病に罹った若い女性は精神病院に入院する。彼女と恋人の男性とその娘の母親の物語。


純愛物語だとは思うのだが、構築されている世界のパースが最初から歪んでいるように見えてならない。性と死、狂気と正常の境界線などテーマは、そうなんだけど、そんなことよりも登場人物たちの会話や行動が気になって仕方がない。


たとえばヒロインが入院先の病院で鐘を衝くシーンなど、シチュエーションが突飛、シュール過ぎてしまって、徳南晴一郎の怪奇漫画やしりあがり寿のシリアスな漫画をイメージしてしまった。

 

病院のそばにある堤防で咲き乱れるたんぽぽの花。それさえも奇矯に思える。

 

乙女系小説や病気・貧乏など不幸が主題だった勃興時の少女漫画も彷彿とさせる。
そう言えば、川端康成って少女小説も書いていたはずだし。

 

川端の『眠れる美女』や『片腕』もぶっとんだフェティッシュ小説だったが。
それにインスパイアされて、渋谷あたりのニュー風俗で団塊世代から上の男性を対象にした添い寝クラブでもはじめれば案外ウケるかもとか、ノーベル文学賞受賞作家を冒涜しかねない発言。

 

川端康成若かりし頃の写真で、鳥や剥製を並べて納まった薄気味悪い写真を昔見たことがある。記憶は定かではないが。この本の解説を書いている秋山駿も川端の特徴ある、あのギョロリとした目を取り上げていたが、そのときの目は猛禽類の目のように鋭く、異様だった。いま検索したら似たような構図の画像があった。

 

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貸本漫画家だった徳南晴一郎の怪奇漫画



 

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川端康成は上野桜木町でたくさんの犬や鳥を飼っていた


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デジャビュ―『<野宿者襲撃>論』から『排除の現象学』へ

 

 

 

 
『<野宿者襲撃>論』生田武志著を読み出す。
村上春樹の『パン屋襲撃』に似たタイトルだが、きわめて今日的なテーマでもあり、
日雇労働者・野宿者支援活動」など、現場からの事実から積み重ねられた
既成概念、固定観念にとらわれない作者のロジックには、感心させられる。

 

「野宿者」を襲うティーンエイジャーたち。公園(公共の空間)にいるからムカつく。
働こうとしないからムカつく。いてもいなくてもいいが、どちらかっつーと、害悪だからムカつく。


ただし、こういう気持ちはぼくにもあるし、たぶんあなたにもある。大小の違いはあるけれど。それが子どもたちにも伝染していく。

 

そして「野宿者」を殺してから、口々に「殺す気はなかった」。紋切り型の答はマニュアルのようで、動機をたずねてみたとて事件の問題の解決にはたどり着けないと作者は記述している。動機がないと取調べが進まないから、調書が取れないと審議にかけられないから、むりやり過去の判例を当てはめてしまうのかな。

 

この本を読んでいてぱっと浮かんだのはキューブリックの『時計じかけのオレンジ』だ。主人公が「雨に歌えば」を歌いながらの暴力シーンは、そら恐ろしかったが、そのシーンが「野宿者襲撃」シーンとダブる。動機も意味もない、理性も常識もない、原初的暴力。

 

デジャビュ。どっかで読んだことがあるぞ、かなり前に。
まったく整頓されていない場末のうらぶれた古書店のような書棚を覗いたら運良くめっかった。


『排除の現象学赤坂憲雄著だ。ぼくは洋泉社の単行本で持っているが、現在はちくま学芸文庫で刊行されている。いまや東北学や柳田邦男の権威となりつつある作者の33歳のときの本。1986年刊行だからバブルがはじまったあたりか。

 

現代社会で排除されている「異人」たちについて書かれた本。
老人、子ども、浮浪者、宗教(「イエスの方舟」)、ニュータウン
生田は「野宿者」も彼らを襲うティーンエイジャーも同じ「ホームレス」で括っているが、それが赤坂のいうところの「異人」なのだ。

 

そうか、結構、このあたりにぼくは感化されて、いまに至るわけだ。

で、作者がこの本の「浮浪者/ドッペルゲンガー殺しの風景-横浜浮浪者襲撃事件を読む」の章の扉でバタイユのアフォリスムを引用しているが、あまりにも素晴らしいので引用の引用。

「排泄物はその悪臭のために私たちの胸をむかつかせるのだ、と私たちは考える。しかし、排泄物がもともと私たちの嫌悪の対象となっていなかったら、果たしてそれは悪臭を放っていただろうか。…嫌悪と嘔気の領域は、全体的に見て、この教育の一つの結果なのだ」(バタイユ『エロティシズム』澁澤龍彦訳)

ほんとうにバタイユは多量なら毒になりかねないが、少量なら薬だと勝手に納得する。

 

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人工知熊に乗りた-い

 

どーなつ

どーなつ

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「クラゲ」(『クラゲの海に浮かぶ舟』)、「カメ」(『かめくん』)、「ザリガニ」(『ザリガニマン』)ときて、今度は熊だ。でも、題名は『どーなつ』だけど。この物語の世界は、ポスト・ウォー。どんな戦争だったかは述べられてはいないが、しかし、その戦争による喪失感、哀しみが全体に漂っている。それこそぽっかり空いているドーナツの穴のように。

 

いきなりわかりにくいたとえ。ぼくたち地球人から見たら火星人は異星人だけど、火星人から見たらぼくたちは紛れもなく異星人だろう。こういうアプローチが作者はひじょうにうまい。

 

全部で10の話からの物語なのだが、百貨店の屋上、人工知能の熊で、「人工知熊」(「能」の字の下にテンを4つつけると、「熊」になる)、スタッフの間では「電気熊」と呼ばれているが。海馬や脳ミソを飼っている水族館の飼育係の話、アメフラシとコミュニケーションすることができ、落語を趣味で演ずる女性研究員…。

 

特に電気熊は、「脳ミソによる直接制御」なので、乗り手との一体感が必要だし、当然、馴れてくれば、カスタマイズされていくわけだし。電気熊たちは、夜中にこっそりと乗り手から得た情報を交換して進化しているらしい。外見はかわいいのに、結構なかなかの能力を秘めている。「パトレイバー」というよりも「エヴァンゲリオン」に近いのかな。でも、見た目はかわいい。どうやら主人公は、電気熊で異星で戦ったらしいのだが。

 

熊といえば全然関係ない話だけど、相変わらずテディベアは人気があるようで、先だってのイベントも大盛況、自称テディベア作家は、ごまんといるようだ。もうひとつ関係ない話すると、熊と相撲をとって足払いで勝った秋田県の山菜取りのオジサン談によると、熊は二本足で立っているときは、意外と弱いそうだ。

 

ついでにおまけで関係ない話をすると、自称熊チャン体型の某前長野県知事も外見とは違ってかなりしなやかというよりはしたたかで、外見にだまされちゃあいけない。

 

はじめて見るのに、いつか見た光景。ノスタルジックなのに、近未来。そんな作者の紡ぎ出す精巧なジオラマのような世界に、いつの間にやら引きずりこまれていく。たぶん、それは、センチメンタリズムなのだろうが、どうもその一言だけではすまされない隠し味が入っている。

 

読んでから、しばらくボケーっとしていた。願わくばぼくも、人工知熊の中に入って操縦してみたい。コクピットからの眺めはどんなものだろう。

 

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きみにメロメロ(Kimi Knee Mero Mero)

 

  

夏なんで、エリック・ロメールの映画『クレールの膝』でも見てヴァカンス気分ざんす。

 

ある女性と生きてゆこうと決めた男性が、別の女性と出会い心動かされる姿を描く『
六つの教訓話』の第五作目。

 

舞台はスイスの湖畔にある高級別荘。結婚を控えた男(ジャン・クロード・ブリアリ)
は、たぶん、かつて恋仲にあった作家の女性の別荘に、モーターボートで足繁く通っ
てくる。

 

そこで、はじめは実の娘に興味をおぼえ、デートなんかに誘う。それは母公認の恋愛
テストのようなものなのだが。ところが、もう一人の娘(亡くなった夫の連れ子)、
クレール(ベアトリス・ロマン)があらわれるやいなや、アウラを感じて、年甲斐も
なくメロメロになる。

 

エリック・ロメールは少女の微妙な心理描写を得意とする監督で、夏、ヴァカンス、
少女の恋という3点セットとマシンガンのようなセリフの字幕スーパーで、スクリー
ンを見つめるぼくを睡魔に誘いかけ、いっしょに見に行った人から軽蔑されるという
苦い思い出がある。

 

過剰なセリフというと、金井美恵子の『噂の女』は、エリック・ロメールにインスパ
イアされて書いたというインタビューが随分前の『群像』か『新潮』に載っていた。
やっぱりね。

 

エリック・ロメールの映画で、ヒゲだらけの中年男が主役というのは珍しく、若い女
性に虜になるというある種、恋愛のパターンにのっとった話の展開は、どこかクラシ
ックな文学の名作を読んでいる気分にさせた。たとえば田山花袋の『蒲団』とかね…。
なぜ日本文学なのか、説明不能

 

のびやかな少女の肢体、「若さに勝る化粧品はない」という格言どおり(おいおい、
そんなのない、いま、デッチあげた)、クレールが魅力的なのは当然なのだが、二人
の女の子のボーイフレンドたちも、ひと昔前の少女漫画の美少年キャラ、ジャニーズ
系。自分勝手で、ある意味粗暴で、女の子を振り回すあたりは、永遠のティーン像っ
てとこ。

 

伊丹十三のエッセイ『女たちよ』で、十代の男女に揃いの浴衣を着せて、線香花火をさ
せ、それを後ろから微笑ましく眺める中年男になりたいとかいう話が出ていた、うろ覚
えなのだが。そんな気分でいた男なのだが、クレールの出現により、節度と良識はもろ
くも崩壊してしまう。

 

結局は、クレールに対して、若者と、いやそれ以下かも、卑怯な戦法に出ざるを得なか
ったインテリ中年男に、どっぷりと感情移入してしまった。どさくさまぎれに恋焦がれ
クレールの膝をさわる。膝ってのが、ビミョー。膝フェチ、恋の寸止め状態か。

 

字幕を追いかけながら、会話の妙を楽しんだ。クレールの膝は、すてきだった。

夏の湖、緑、光、素肌などカメラワークが抜群にいい。ヌーヴェルバーグオリジナル
メンバーのエリック・ロメールは、少女ばかりかトリュフォーばりに、恋する中年男
を撮るのもうまいや。

(1970年製作 フランス)

 

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もみほぐされた言葉が頭と心をもみほぐす

 

 

『言葉をもみほぐす』赤坂憲雄著 藤原辰史著を読む。

 

民俗学者歴史学者との往復書簡集。対談ではなく手紙のやり取り。
お互いの表情などはわからないが、文面からの言葉を読み、考える。
ほどよい距離感というか、読んでいて二人がシンクロしていて心地よい。

 

こんなところが印象に残った。

 

「(赤坂)ほんとうは、自分で喋るよりも、他者の声に耳を傾けることのほうが好きですね。―略―山形で過ごした20年足らずの歳月に、数百人の人々のライフ・ヒストリーを聞き書きしています。―略―書き言葉もまた、それにつれて大きな変容を遂げざるをえませんでした」

赤坂の父親が福島県出身とは知らなかった。「東北学」を提唱していたのは浅く知ってはいたが。

「(赤坂)わたしたちはいま、災間の時代を生かされています。巨大な災害のあとを生きているのではなく、また、いつとが知れず、しかし確実に近い将来起こるはずの大きな災害までの、ほんのつかの間の猶予期間を生かされている、ということです」

東日本大震災、新型コロナウィルス。「災間の時代」ね。

 

「(赤坂)宮崎駿監督のアニメ映画『風の谷のナウシカ』(1984年)には、「汚れているのは、土なんです」という印象的な言葉が、ナウシカ自身によって語られていました。―略―福島県内のゴルフ場であったか、堆積した放射能性物質をめぐって東電を訴えたのにたいして、放射能性物質は「無生物」であるから責任を問うことはできないと、却下されたのです」

法事で郡山へ帰省したとき、いたるところで除染作業がされていた。到底すべては除染できないのだが。元請けに中抜きされて地元の建設会社はどれだけの利益があったのだろう。
赤坂の著作は『異人論序説』と『排除の現象学』にシビれた。最近のものは読んでいない。まずは『ナウシカ考』、読もっと。


「(藤原) ベンヤミンは歴史の屑拾いを自称した、と『分解の哲学』の書評で野家啓一さんがお書きになってくださり、小躍りしました。ベンヤミンの真似をして、私も歴史に打ち捨てられたモノを拾って歩きたい。歴史学の作業とは、自分にはどうしようもない大きな力の下で、泥に打ち捨てられた人やモノたちを、史料の上で確認して、言葉にほぐすことで、その異形な人やモノが現代社会を生きるあなたの体の一部であることを、宗教や道徳とは別の次元で証明することだと思うのです」

そうか。『ナチスのキッチン』も、『分解の哲学』も、「歴史の屑拾い」という視座から書かれているんだ。納得。貝塚だって考古学には貴重なものだが、元は太古人のゴミ捨て場だったわけだし。

 

「(藤原) もうコロナの前には戻れないことに多くの人たちが気づき始めています。―略―こんな時代は、この世の生を狂い歌う叙事詩を聴きたいのですが、残念ながらその名手だった石牟礼さんはあの世にいて、私はあのように狂気を歌う能力を持ちません。ただ、ひたすらに、未曽有のパンデミックと大失業時代に直面して、これまでの社会の矛盾が白日のもとに晒されたいま、当時を体験した人びとの声を聞き、しれをまとめていくことしかできません」

なんとかの一つ覚えのような「安心・安全」。医療崩壊


「(赤坂) コロナという災禍のなかでは、見えない棄民政策が推し進められています。新型コロナウィルスが天災か人災かが知らず、いや、あきらかに複合的な「文明災」(梅原猛)だと思いますが、藤原さんが指摘されているように、弱き人々が直撃されています」

棄民政策」。ナイスな表現。自宅療養なんて放置、見殺しだと思う。

 

新井卓の銀板写真が花を添える。


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奇怪な神・機械が「最大の戦争」を引き起こす

 

 

『絶対製造工場』カレル・チャペック著 飯島周訳を読む。

 

「大企業メアスの社長ボンディ」は、画期的な発明を売却したいという新聞広告を目にする。依頼主は「マレク技師」。大学の同級生だった。開発したのはカルブラートルと名付けられた機械。

マレク曰く、

「ぼくの完全カルブラートルは、完全に物質を分解することで、副産物を創り出す―純粋な、束縛されぬ絶対を。化学的に純粋な形の神を。言ってみれば、一方の端から機械的なエネルギーを、反対の端から神の本質を吐き出すのだ。水を水素と酸素に分解するのとまったく同じさ。ただ、それよりおそろしく大規模なだけだ」

ボンディは、カルブラートルの発明を買い取って量産化する。確かに国や資本家にとっては都合の良い夢のような機械だった。さまざまな産業で導入が進む。たとえば某繊維工場が「ボイラーの代わりにカルブラートル一基を据え付けた」。すると「自動紡績機と織機が勝手に動きはじめる」。ノンストップで織り続ける。労働者は不要となる。ここまでは良かったのだが、過剰生産で織物の価格は暴落する。絶対によるカルブラートルの暴走はクレームの嵐となってボンディの会社に来る。

 

ボンディはドイツやフランス、イギリスへカルブラートルを送り込んで絶対でめちゃくちゃにすることを目論む。

 

山小屋でリタイヤ生活を楽しんでいるマレクの元へボンディが訪ねる。カルブラートルの功罪、絶対について発明者に再度問う。けど無駄足だったかも。

 

やがて絶対はカトリック教会に受け入れられる。そこから話がドタバタしだす。キリスト教イスラム教との宗教戦争が勃発。やがてカルブラートルを導入した国々は絶対=神のしわざで原理主義に洗脳され、本格的な戦争、世界大戦となる。といってもアイロニカルな笑いが行間に地雷のように埋まっているが。

 

この本は第一次世界大戦後に書かれたのでその当時や近未来への不安などが色濃く反映しているのだろう。東洋の島国日本も良い意味でも悪い意味でも世界から脚光を浴びだし、怪しげな日本人将校も出て来る。

 

歴史改編ではなくて未来を予測した小説。第ニ次世界大戦悪い方で当たってしまったが。さらにイスラム主義組織タリバンアフガニスタン制圧などカルブラートルの為せる御業か。

 

日本軍がアメリカ西海岸へ上陸する短いニュースなどは、フィリップ・K・ディックも真っ青。

 

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AIはどこまで来ているんだろう

 

 

ポロック生命体』 瀬名秀明著を読む。
久しぶり。一時期、作者のロボティクス関連本を読み漁った。
それ以来かも。AIがテーマの4つの短篇集。

実際、AIはどこまで進化している?AIって本当に人間を超えるの?
読めば、AIの最新ネタを小説でわかりやすく面白く知ることができる。
このあたりは作者の真骨頂だろう。


以下短いあらすじなり、感想なりを。

 

『負ける』
「AIの将棋ソフト「舵星」が永世名人に勝った」。それはAIの能力が人間より優れていることなのだろうか。ここに出て来る将棋を指すロボットアーム「片腕」を実物で見てみたい。この一文が深い。

「人間が(人工知能に)負けてゆくこの瞬間に見える風景は、次に人工知能が負けるとき、きっとかけがえのない指針になるだろう」

はやポストAIの時代を示唆している。

 

『144C』
新人作家とメンターのやりとりから「物語をつくる人工知能」の歩みが述べられる。

AIでオリジナリティのある小説はつくれるのか。たとえば過去のあらゆる作品をビッグデータ化、そこから言葉をチョイスして売れそうなストーリーをAIがつくれるようになったとしたら。しかも機械ゆえ人間の作家のような老いはないと。劣化はあるかもしれないが。作家もどきだったAIが作家になる日はいつ来るのだろう。

 

きみに読む物語

「なぜ私たちは本を読んで感動するのだろうか―略―それを科学的に説明することはできるだろうか」

AIを使ってその感動を数値化するという話。「EQ(感情指数)」のような。それが共感指数SQ。ベストセラーは書き手と読み手とのSQのベストマッチングから生まれるそうだ。新しい尺度SQで古今東西の名作が数値化される。

 

ポロック生命体』
何やら新しい用語かと思ったら、ジャクソン・ポロックポロックだった。「ポロック」は、元大学でAIを研究していた石崎が起業した会社名。ポロックの絵をCGで再現する研究をしていた。会社ではかつての高名な画家、光谷一郎の晩年の「創作活動」に協力。傑作と評価されているが、実は、サイン以外はすべてAIが光谷の絵を描いていた。ポロックは、アクションペインティングで時代の寵児となった。
はたしてAIが描いた作品は芸術と呼べるのか。


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