ヘンリー・ジェイムズの長篇小説デビュー作。そのできばえ、完成度に舌を巻く

 

 


犬や猫が降る雨(It's raining cats and dogs)という英語の言いまわしを思い出すほどの雨。

 

『ロデリック・ハドソン』ヘンリー・ジェイムズ著 行方昭夫訳を読む。
長篇小説デビュー作。そのできばえ、完成度に舌を巻く。
新訳もバッチグーでとても「1875年に発表」された作品とは思えない。

 

核となっているのは、男女の4角関係。
まずはローランド。まあまあの資産家の家に生まれた彼は父親に金持ちのボンボンとは真逆、厳しく育てられる。
父親が亡くなるが、遺言により財産の大半は寄付となる。
それでも一生遊んで暮らせるくらいの資産を手にする。
ローランドは教養豊かなモラリスト。芸術にも造詣が深いが、あくまで鑑賞する側。


そんな彼のもとに現われたのがイケメンのロデリック。
いやいや法律事務所に勤めていたが、彼の趣味でつくる彫刻に天賦の才を感じたローランド。パトロン(パトロネージ)として一緒に芸術の本場・イタリアへ修行に行くことを持ちかける。渡伊費用はイタリアで作った彫刻の代金で差し引くと。


うかれるロデリック。藪から棒でロデリックの母親は、ローランドを詐欺師然と見る。
母親の世話をしているメアリ。その慎ましやかな美しさに惹かれるローランド。
若きアーチスト気質のロデリックは、優越感と劣等感が入り混じった性格。
イタリア行の船でメアリと婚約したことを話す。

 

ローマなどで日々美術鑑賞。遺跡を散策。
ローランドは見聞を高め、ロデリックは創作意欲を高める。
ロデリックの彫刻は高い評価を得る。
二人に現われた母娘。娘はミス・ローマクラスの美女・クリスチーナ。
母親は娘を金持ちの貴族に嫁がせることが生きがい。
クリスチーナは玉の輿狙いかと思いきやクリスチーナは猫気質の気まぐれガール。


メアリという婚約者がいながら、同じく気まぐれなロデリックは惚れてしまう。

やきもきするローランド。
天才ゆえの常識が通じないもどかしさ。二人にすき間風が吹き出す。
創作活動にも身が入らないロデリック。ギャンブルや女性に手を出す。
アメリカから母親とメアリーを呼び出す。

カサマシマ公爵からの求婚を躊躇していたクリスチーナ。
ロデリックからの愛を受け入れるかに見えたが、結局は公爵と結婚する。

 

裏切られた思いのロデリック。メアリーを案じるローランド。
息子の失意をイタリアに連れて来たローランドのせいだと誹(そし)る母親。

 

ローランドたちはフィレンツェからスイスへ。
スイスのリゾート地で偶然、カサマシマ公爵夫妻と出会う。
何たる運命の悪戯。

人生のほろ苦さをこれでもかと味わえる、実に堂々たる格調高い物語。

 

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かわいい、こわい、かわこわい

 

 

マイマイとナイナイ』皆川博子作 宇野亜喜良絵 東雅夫編を読む。

 

作者の短篇、掌編小説が素晴らしいのは知っていた。
こんな絵本を出していたとは。
しかも画家が宇野亜喜良
バタくさい世界が、どんぴしゃり(連続死語か)。

 

ダークファンタジーというよりも
かわいい、こわい、かわこわい。

 

マイマイという少女に、ある日、小さな弟・ナイナイができた。
ナイナイはマイマイ(カタツムリ)の背に乗っていた。
両親が気がつかないほど小さい。彼女は胡桃の殻に弟を入れた。

 

「白い馬に蹴られて右目が壊れた」。
マイマイは眼の代わりに胡桃を入れた。

 

胡桃の中のナイナイは幽閉されたのか。
彼は怖ろしい夜の夢を引き込む。
当然、マイマイも怖ろしい夜の夢を見る。

 

ナイナイは夜の夢に胡桃の殻から解放される。
ところが、マイマイは夜の夢に胡桃の殻に心を幽閉される。

 

マイマイのこころは胡桃の殻に乗って
あてどもない救いへの旅に出る。

 

一種の貴種流離譚風。もしくは、皆川博子版『眼球譚』といってもいい。

オスカー・ワイルドの『幸福な王子』は青いサファイヤでできた眼を貧しい人々に差し出した。

アーモンドアイ、切れ長の目はアジアンビューティの象徴。

 

ふと、澁澤龍彦の『胡桃の中の世界』を思い出した。

 

作者の100字小説集とか読みたいなあ。

 

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作家大爆発

 

 

日本文学盛衰史高橋源一郎著を読む。

『一億三千万人のための小説教室』のレビューの続編なんで、興味のある人は、面倒でもそこからお読みいただけると幸いです。

 

と、いうわけで評判の高い本作を手にすることにした。あれよあれよという間に、読んでしまった。ほんとはしなきゃいけないことが山のようにあるんだけど。

 

本作は、日本近代文学の揺籃期を描いた小説。だけど、そこはポップ文学の第一人者である作者だけに、いままで国語の授業や日本文学の講義で習ったものとはひと味もふた味も違っている。たとえば、いま、ぼくたちがこうして書いている文章は言文一致体というが、その創始者といわれる二葉亭四迷や山田美妙の苦悩をかなり、リアルに再現している。

 

日本語でロックは表現できるか。それで大激論となった日本のロックの黎明期と似てなくもない。

 

新しい日本文学を樹立しようと意気込む作家たち。ドストエフスキーなど当時の世界の最先端文学を翻訳しながら、どのように自作に採り入れようかと躍起になる作家もいれば、オリジナリティの創作に励む作家もいる。

 

国木田独歩田山花袋らに代表される自然主義文学はオールドファッションだと当時勃興しつつある危険とみなされた社会主義思想に強い共感を抱いていた石川啄木。石川が校正係をしていた朝日新聞社に出入りしていた夏目漱石との交流。森鴎外島崎藤村などキラ星のごとく輝く明治時代の文豪たちが本作の中では、いきいきと動き回っている。

 

樋口一葉が登場してくるシーンは、王道をいく青春小説仕立てになっていて、-村上春樹パスティーシュの如し-ふだんはひねくれた文学ファンならずとも、そのまぶしい青春ぶりにテレることなく賛辞してしまうはず。

 

伝言ボックスを愛用して、渋谷が大好き、アルバイトでブルセラショップの店長をしているな石川啄木やアダルトビデオ監督に挑戦する田山花袋など、作者は、ケータイ、Web、ルーズソックスの女子高校生など現代のトレンドを巧みに織りまぜながら、ポップにユーモラスに展開している。

 

ある詩人のサイトの掲示板の書き込みあたりが実にうまくて笑える。違和感があるかというとなぜかそれがまったくといっていいくらいない。なぜならば古色蒼然たる世界ではなくアップ・トゥ・デートな世界をとらえようとしているからだ。

 

坪内祐三あたりがしきりに明治時代の文学をプッシュしているのは、この時代の多士済々な作家たちや作品、いずれもが爆発的なエネルギーにあふれているからなのだろう。さしずめ明治時代は、かつていろんな生物がいちどきに大量発生したカンブリア期のようなものだ。

 

メタフィクション、メタメタフィクションと、もうメタメタ…。

 

日本文学史としても読めるし、ある意味、私小説的部分(作者のご母堂のことやラストに出て来る実子に対しての思いは、まるっきし無頼派作家のよう)もあるしと、かなり味わい深い、読み応えのある小説である。

 

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続・眩暈のする読書―めくるめく思いでページを捲る

 

 
『山の人魚と虚ろの王』山尾悠子著を読む。

冒頭の数行を読む。作者の世界に吸い寄せられる。

その文体。漢字を多用した文。
思いつくままに挙げるならば、泉鏡花渋澤龍彦金井美恵子須永朝彦、葛原妙子、塚本邦雄などを継承するかのような、一種の擬古文ではないだろうか。

 

話はこうだ。年の差婚した男は若い妻と新婚旅行に行く。

行く先は「高原都市」にある「夜の宮殿」。二人は縁戚関係にあった。
男はエキセントリックな妻の行状や物言いに戸惑いながらも
短い旅行を楽しもうとする。そこで起きた数々の不思議な出来事。

 

確かに著者の作品ではもっとも読みやすいかもしれない。
読みやすいが、それが夢なのか、現なのか、幻なのか。
また過去、現在、場合によっては未来まで時制が一緒くたになっている。

 

男と妻の衣裳から列車、駅、宿泊先のホテル。
さらに出される料理などの濃厚な言い回し。とりわけ食べ物の描写がゴージャス。
フェティッシュ(偏愛)の大聖堂。

 

舞踏集団「山の人魚団」の一員だった叔母が亡くなって急遽予定を変更、葬儀に参列する。『山の人魚と虚ろの王』は「団の代表作」。妻が団の後継者になることを知る。

 

「夜の宮殿」に泊まった二人。バーでの降霊会に参加する妻。

男は新婚旅行中に亡くなった母親と出会う。母親に妻を紹介する。

 

「虚ろの王」は機械仕掛けで動いていた。オートマタだったのか。

二人は機械の山へ行く。
ボルヘスの『バベルの図書館』を彷彿とさせる図書館が出て来る。

 

二人に子どもが生まれるが、この子どもも…。男の妄想なのか。
男は生きているのか、死んでいるのか。妻は人間なのか、機械なのか。
二人は夫婦なのか、本当に新婚旅行に行ったのか。

 

めくるめく思いでページを捲る。日本幻想文学の極みといえる作品。


「旅牛」をビジュアルで見てみたい。いいや、すべてだ。
降霊会で鈴木清順監督、木村威夫美術監督を呼び出して映画化を望む。


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ライトじゃないノベル

 

 

新井素子SF&ファンタジーコレクション3 ラビリンス<迷宮> ディアナ・ディア・ディアス新井素子著 日下三蔵編を読む。

 

『扉を開けて』は、西の国が舞台だったが、『ラビリンス<迷宮』は隣接する東の国、『ディアナ・ディア・ディアス』は南の国が舞台。『扉を開けて』の感じなのかなと思ったら、まるっきり違っていた。こちらは、ぼくの狭小なSF知識からみると、萩尾望都やアーシュラ・k・ル=グウィンの世界とつながっている。物語の構造やテーマは今読んでも楽しめる。

 

『ラビリンス<迷宮>』
15歳だが狩りの腕前は男性を凌ぐサーラ。神官の娘で賢明なトゥードは、「神」への生贄として神の住まいである迷宮に送られる。

「神」は豊かな知恵を人間に供与してくれるが、生身の人間を貪る怪物でもあった。創造主でありながら人間を食べることで生きている「神」の自己矛盾。二人はラビリンスで「神」と激しいバトルをしながら「神」の存在を再確認する。王道の女性バディものといえる。

 

ディアナ・ディア・ディアス
冒頭に「ディア(ディアナ・ディア・ディアス)は、二面神である」「ディアを両性具有神としているのは、二つある頭部である」と出て来る。「女がディアナ、男がディアス」。つかみですっかりつかまれてしまった。

王位の第一継承者である兄リュドーサが突然亡くなって、王位を継承することになったカトゥサ。「高貴なる血」をひく者だけがその資格があるのだが。王位をめぐる権力争い。そこに産まれる悲劇の恋愛。オペラでも見たい英雄譚。

 

『週に一度のお食事を』
電車の中で中年男に「首筋をキスされた」「あたし」。男は痴漢ではなくて吸血鬼だった。当然、吸血鬼になったあたし。食欲はなくなる。で、ボーイフレンドの「首筋にかみつく」。吸血鬼カップルになった二人。どの人の首筋がおいしそうか品定めをする。ねずみ算式に吸血鬼が増え、権利を主張しはじめる。一種のほら話風で笑える。

 

『宇宙魚顚末記』
女子大生のひろみは作家志望。小説がうまく書けないし、彼からは音信不通で気分は鬱気味。高校時代の友人「佳拓」と「美紀子」と3人で海に行く。美紀子が海辺で「美しい水色の壜」を拾う。壜を投げるとそこから女性が現れる。「悪魔」と名乗った彼女は3つの願いを叶えると。ひろみは彼が違う女性にラブしていることを知り、ついかっとなって「みんなお魚にたべられちゃえばいい」とお願いする。
すると巨大な魚が空に漂いだす。魚は地球を食べつくすのか…恋の痛手が地球破滅の引鉄になりかねない。著者、従来路線の作品。若者のダ話やありがちなテーマからチャーミングなSF小説に仕上げてしまうのは、恐れ入るしかない。

 

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『創発  蟻・脳・都市・ソフトウェアの自己組織化ネットワーク』メモメモ

 

 

オリンピック。スケボー少女たちのかわいらしさにモエる。


創発―蟻・脳・都市・ソフトウェアの自己組織化ネットワーク』スティーブン・ジョンソン著  山形浩生訳を読む。
ネットで調べてみたら、表題の意味が出ていた。
簡潔にうまくまとめられているんで、これでほぼOKっす。

 

創発 emergence

局所的な相互作用を持つ、もしくは自律的な要素が多数集まることによって、
その総和とは質的に異なる高度で複雑な秩序やシステムが生じる現象のこと。
所与の条件からの予測や意図、計画を超えた構造変化や創造が誘発されると
いう意味で「創発」と呼ばれる。
 もともとは生物学や物理学(複雑系)、社会学などで使われている言葉で、
「物質の凍結(相転移現象)」「アリが巣を作る(群知能)」「細胞の集まりが
生物であること(生命現象)」「新種生物の突然の発生(進化論)」
「市場におけるバブルの発生(経済学)」のような“要素に還元できない現象”のことをいう。ナレッジマネジメントの分野では、個人1人1人の発想の総和を超えた、
まったく新しいナレッジの創造を行う手段として、
「情報創発」への取り組みが行われている。」

 

IT情報マネジメント用語事典より

以下引用と感想。


「(これまで)の発想は粘菌たちが、他の細胞に集結を命じる『ペースメーカー細胞』の命令にしたがっているというもの」。ところが、「粘菌細胞はペースメーカー細胞なんかいなくとも、自分で組織化していたこと」が立証された。

 

トップダウン」ではなく「ボトムアップ」。すなわち、「複雑な適応システムで創発行動を示している」と。アリ然り、都市住民しかり、ソフトウェア然り。

 

「低次のルールから高次の洗練へと向かう動きこそが、創発と呼ばれるものだ」

プロ野球のオーナーは、きわめて低次のトップダウンでヤんなっちゃう。矛盾したいいまわしだけど。

 

「アリの世代は現われては消えるが、コロニー自体は成熟し、もっと安定し、もっと組織的になる」細胞だってそうだと。「近隣から学ぶことで、もっと複雑な構造に自己組織化する」これにより、「マウスになったり、回虫になったり、人間になったりするときに重要な役割を果たす」

 

「イタリアの神経科学者ジアコモ・リツォラッティは、他人の心の理論にとって中心的となるかもしれない脳の部位を発見した」

「リツォラッティの発見は心を読むモジュールもあるかもしれないと示唆している」

「モジュール理論はまた、その配線が障害を受けたときに何が起きるかという証拠でも
裏付けられる」

「世界を認識しつつ、一方で自分は認識できないというのは、理論的に不可能に思える」
しかし、現前しているのだ。

 

オリバー・サックスのエッセイを読んでいたら、自閉症の科学者のことが書かれていた。彼女が記憶していることを話すのは、テープレコーダーが録音されたものを再生するようなものであると。

 

「何十億というニューロンの集合体はなぜか自意識を作り出す」
「脳、都市、ソフトウェア-略-それらは、みんな自己組織が機能している事例なのだ。局所的な相互作用がグローバルな秩序につながっている」

ドゥルーズ/ガタリ、言うところのリゾームとリンクする。

 

「自己組織化の力-それがインターネット接続技術と結びつくことで、同じくらい重要な革命がもたらされる。応用創発は、単にユーザー親和性の高いアプリケーション構築をはるかに超えたものとなる」

 

「分散生産と開発は、一部の根本的な所有権が否定されたオープンソフトウェアの世界ですばらしい成果をあげた。だが、後期資本主義のもっと独占的な部分が、その内部組織をアリの巣やニューラルネットにあわせて形成できるかというのは、大きな問題として残る」

 

「ある分散知性(人間の脳)は他の分散知性(アリ)の教えを適用する新方法を理解し、
それが別の種類のもの(バーチャル都市)の送信プラットフォーム(ネットワーク)として使われ、そのバーチャル都市をわれわれは、地球上で最大の人工自己組織化(実際の都市)の近隣にあるアパートに安全に座って楽しむ。連鎖のずっと下まで創発が続く」

 

気になったとこだけ、羅列してみた。前後不明で判読しにくいとこは、ご容赦。
ほんとは、もっと掘り下げたいんだけど、このへんで。

 

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自分というクランケ

 

 

壊れた脳生存する知』山田規畝子著を読む。


作者の病歴。「大学二年生のときの『一過性脳虚血発作』、大学六年生のときの『モヤモヤ病』による脳出血、三十四歳のときの脳出血脳梗塞、三十七歳のときの脳出血」。「高次脳機能障害」となる。その間、外科医となり、結婚、出産、離婚を経験している。


長嶋茂雄前監督の例を出すまでもなく、脳出血脳梗塞は特に中高年男性にとって危険度の高い病気である。


作者は自分の障害を知ろうと本などを読み漁るが、納得する答えは得られない。しかし、山鳥重(やまどりあつし)教授の本と運命的な出会いをし、手紙を書き、メールをもらい、実際に会うこととなる。そして自分の体験を書くことをすすめられる。


やはり生命科学者でいまはサイエンスライター柳澤桂子も原因不明の病で三十年余りも床に伏していたが、ある医師と新薬に出会い、奇跡的に回復した。


こういうことは運・不運だの、偶然でしか語り得ないのだろうか。かつて妻が入院してから医師には不信感をますます募らせるばかりなのだが。要するに「『スルメ』(データや数値)を見て『イカ』(患者・臨床例)がわかる」(by養老孟司)と勘違いしている医師が主治医だったりするもので。マジでセカンド・オピニオンを検討している。

それとこの本にも書いてあるけど、医師や看護士、セラピストの物言いだよね。ドク・ハラ以前に人間性を疑っちゃうね。


ぼくが読んでいてショックを受けたのは、作者が術後、入院していて看護婦がいなくて、自ら身体を動かそうとしたら転倒してしまい、病院から「暴れる患者」「精神異常者」扱いされたことだ。


高次脳機能障害は、痴呆ではない。「知能の低下はひどくないので、自分の失敗がわかる」。だが、「視覚失認知」「記憶障害」などにより「本が読めない」「漢字が書けない」。そんな自分自身に対して本人が情けないとも思うし、周囲の反応もわかるそうだ。


いったん壊れた脳が次第に回復し、学習していくサマも、じんとくる。
「脳の一部が壊れたとき、脳は残された正常な機能を総動員して壊れた部分を補い、危機を乗り越えようとするものらしい。そのため、昔とった杵柄にしろ、叩けば出るほこりにしろ、その人の歴史が浮かび上がってくるというのである」だから「なんでも経験」しようと。


ピンチはチャンス。なのではないが、作者は、「(高次脳機能障害の)理由を、メカニズムを知りたい」と、「神経心理学」への興味が芽生えだしてくる。ポジティブさというのか、気持ちの切り替えが素晴らしい。


やがて、できないならできないなりに、自分で対処法を編み出す。このあたりは、同じ病気で苦しむ人には、またとないヒントや励ましとなるだろう。改めて、社会がまだまだいかにバリアフリーでないことが、作者の体験談から知らされる。


「痴呆と正常の境界線はどこにあるのかというと、答えはどうやら脳の前頭前野という部分の機能にあるようだ。物忘れなどがあっても、この機能が正常なら痴呆にならないという」。


現在、老人保健施設に勤務している作者の今後の課題の一つである。


全篇さばさばしている。つとめてクールに書かれている。作者がいうように外科医だった職業意識が働いているのだろう。自分というクランケを医師であるもう一人の自分が診断している。いわゆる闘病記ものでもあるが、優れた科学書でもある。

 

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