読みしめたい「哲学のエッセイ」集

 

 

 

『生成流転の哲学 人生と世界を考える』小林道憲著を読む。

 

「宇宙、時間・空間、人類、芸術」など多岐にわたり、文系から理系まで踏まえた短い「哲学のエッセイ」が収められている。まずは目次を眺めて興味深いテーマから読み出すと知的好奇心を大いに刺激してくれる。読後感が、どことなく寺田寅彦のエッセイを思わせる。参考文献や人名・事項索引もあるので、さらに詳しく知りたい人には手助けとなる。

 

こんな感じ。

デカルトの自己は、世界の外に立って世界を見ている。しかし、われわれは、世界の中にあって世界を観察している。―略―しかも、この世界内主体は世界の中で行為する。―略―だから、私が在るのは、考えるがゆえにではなく、行為するがゆえである。
目を退化させたモグラも、掘りながら土を知り、己を知る。モグラデカルトに対して言うだろう。「われ掘る、ゆえにわれ在り」と」(「3 時間と空間  モグラデカルト」より)

 

「オランダの版画家、M.C.エッシャーの作品に、―略―「円の極限Ⅳ(天国と地獄)」」と題する作品がある。―略―悪魔が踊っているようにも見え、天使が踊っているようにも見えるわれわれの視点を主観と言い、天使と悪魔が折り重なっている絵を客観というとすれば、天使や悪魔はわれわれの見方次第で現われなかったりするのだから、主観と客観はいつも一つになって対象を作っていることになる。そこに現われている悪魔や天使は、単なる客観でもなければ単なる主観でもない」


量子力学のもう一つの原理、相補性原理でも、光や電子は、粒子とも見ることができるし波とも見ることができる。波として見るか、粒子として見るかは、観測者次第である。量子力学では、物質のもつ粒子性と波動性は相補的であり、しかも、両者は同時に観測されることはない。ここでは、世界は、いわば波と粒子の重ね合わせの状態にあり、われわれがそれをどのように観測するかによってのみ、現象は一定の状態に収束する。この点でも、これは、見方によって天使とも悪魔とも見られる「円の極限Ⅳ」に似ている」「6 人間について  エッシャーの多義図形」より )

 

「生々流転」ではなく「生成流転」、その哲学とは。あとがきから引用。

 

「天と地、生と死、善と悪、聖と俗、煩悩と救いなど、相反するものは相補って存在し、それらが絡み合って、生成流転する世界は成り立っているという考えである。―略―絶えることのない変化の流れの中で、すべてのものは生成する」

 

噛むと噛みしめるという言葉がある。後者の方が、より奥歯あたりにギュッと嚙む力が加わる感じ。で、読むに対して読みしめる。あ、正しい日本語ではないかもしれないが、この本は、読みしめたい本。

 

M.C.エッシャー「円の極限Ⅳ(天国と地獄)」」


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