動かないといけない

『動きすぎてはいけない』千葉雅也著のまとまらない追加感想メモ。


ベルクソンの宇宙は、外部からの/への入出力に対して閉じており、それ自体で体勢を保っている「オートポイエーシス」のシステムのように見える。この宇宙において、因果性のネットワークの全体的内在性に対しシャープに無関係な個性体は、ありえないことになる」

やはり、「オートポイエーシス」か。
わかったようでほんとはわかっていないところ。
でも「因果性のネットワークの全体的内在性」は、
系統樹じゃなくてリゾームなのね。
ベイジアンネットワークで解釈したら、どうなるんだろう。


ドゥルーズの見立てでは、ユクスキュルはスピノザの後継者であり、
エソロジーは『エチカ』の具体化である」

 


「ユクスキュルによれば、動物たちはそれぞれ環世界の主体として存在しているし、人間の個々人によって違っている環世界もまた、数多ある環世界のひとつにすぎないとされる」

曼陀羅縁起や「南方曼陀羅」とか。でも、交わることのない世界。
やはり「切断」がキーワードなのか。

 

「9-5 死を知る動物」から。


「動物が死に瀕していればいるほど人はいっそう動物になる。そして、精神主義的な偏見に反して、動物は死ぬことを知っており、その感覚ないし予感をもっているのである。文学が始まるのは、ロレンスに従えばヤマアラシの死と共に、カフカに従えばモグラの死と共になのである(……)。人は死んでいく子牛のために書く、そう言っていたのはモリッツだ。女性的、動物的、分子状のさまざまな迂回に到達するのは言語の義務であり、あらゆる迂回は死を賭した生成変化である(ドゥルーズ「文学と生」、『批評と臨床』)」


動物は死には従順、天命を知る。
延命措置されるのは、人間とペットぐらいか。

のんびり構えていたら、同時に動き出した。
ありがたや、ありがたや。

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