『だれか、来る』 ヨン・フォッセ著 河合純枝訳を読む。
「2023年ノーベル文学賞を受賞した、ノルウェーを代表する劇作家の」「初の日本語訳本」。『だれか、来る』は戯曲。戯曲、なんか読みにくい。いやいや、そんなことはなかった。
「五十代の彼」と「三十代の彼女」は、オーシャンビューならぬフィヨルドビューの古い家を買う。交通の便も悪いが、その分、邪魔されずに二人っきりでいられる。
「二人きりになりたい」でも、だれか、来るかも。
彼女は家を買ったことに満足しているが、彼の方はやや後悔しているところもある。
第一場ではだれも来ない。さては、ベケットの『ゴドーを待ちながら』の本歌取りかと思ったら、第二場でだれかが来た。
2人が買った家の持ち主だった祖母の孫の二十代の男性だった。
家は老婆の使っていた家具調度品もそっくりそのままある。薄汚れたベッドの下にはオマルがあって、中には半分ほど尿が残っているという按配。
来た男が昔流行った用語で言うならトリックスターなわけで。侵入した男は、「彼」と「彼女」の間に波風を立てる。こんなロケーションも悪い古家を買ってくれてありがとうと口先では謝辞を言うが、なんか本心は違うような。
ベケットの反演劇風でもあるが、チェーホフ風でもある。村上春樹の小説ではなく濱口竜介監督の映画版『ドライブ・マイ・カー』にもつながるような。
『魚の大きな目』は、エッセイ。散文詩といってもよいだろう。ミニマルかつリズミカルな文体。フィヨルドでフィッシングをする「僕」。釣りをしながら、自分の創作や人生について考える。
訳者の詳細な解説がありがたい。小津安二郎の映画にも感化されたとか。確かに短い台詞や間は似ているかも。
話は戻るが、『だれか、来る』は、不条理というかシュールなコントにも思える。東京03でやったらいいかもと妄想する。キャスティングは
小津安二郎が監督するなら
笠智衆 1904年生まれ…彼
原節子 1920年生まれ…彼女
佐田啓二 1926年生まれ…男