進化もしくは新化するマンガ。さて、マンガ評論はどうだ?

 

 

『テヅカイズデッド ひらかれたマンガ表現論へ』伊藤剛著を読む。

 

そういえば、山手線で高田馬場駅に到着すると、ホームから『鉄腕アトム』のジングルが流れる。かつて、ここに手塚プロダクションがあったからか。

 

頭にうかぶままメモしてみる。

 

○まず、マンガはほんとうにつまらなくなったのか。それで、読まれなくなったのか。
『少年ジャンプ』以下少年漫画誌の発行部数は確かに減少している。統計的には、またビジネス面など「量」的な見方をすれば、そうかもしれないが、マンガはさらに拡散して、次なる進化(この言葉が的確かどうか疑問だけど)を遂げて、新たな読者層の心をとらえていると。

 

○この本にもその代表として『少年ガンガン』が挙げられているが、これはぼくにはもう読めない。ついていけない。でも、いまの子どもたちには支持されている事実を鑑みれば、マンガ(少年漫画誌)は、ようやく本来の子どもたちのものに回帰したのではないだろうか。

 

○そして、作者はいう。レディーメードの漫画評論では、現在のマンガは論じられないと。つまり、マンガを歴史軸から解釈する、ウンチクたれ評論。「若い読者の間からは「マンガ評論とは、(自分たちとは関係のない)昔のマンガについて語るものでしょう?」という声も聞かれている」

 

○それと本当にマンガは手塚治虫の『新宝島』に感化され、そこから始まったものなのか。トキワ荘メンバー、手塚チルドレンにはそうであったかもしれないが、ほんとのところはどうなのか。作者は検証を重ねる。

 

○作者は「マンガを構成する三要素に「キャラ」「コマ構造」「言葉」」としている。
従来なら「絵」と「ストーリー」とかそういうものなのだが。

 

○ちとややこしいが「キャラ」と「キャラクター」は同一ではないとか。「「キャラクター」は必ず基盤に「キャラ」であることをもつ」「「キャラ」の強度とは、「萌え」を支えるものである」「強烈なキャラ」が存在していれば、それだけでマンガは成立するということなのだろうか。

 

○ぼくが魅かれたのは「コマ構造」だ。確かに『新宝島』の映画のようなスピード感あふれる「コマ構造」は、斬新だったようだ。映画からモンタージュなどを引用しているが、映画の絵コンテとマンガの「コマ構造」は、似て非なるもの。


絵コンテは撮影して映画にするための契約書のようなものであるが、マンガはマンガだけで完結なり帰着なりをしなければならない。

 

○新しいマンガには新しいマンガ評論、マンガ批評を。もっと「表現」軸からアプローチしたものがあってもいい。

 

○マンガ図版が多用されており、理解促進を大いに助けている。図版がなかったら、マニアでなきゃついていけないだろう。作者が作成した図は、一見明解に思えるが、じっくり眺めてみると、よくわからないものが少なからずあった。当方のマンガIQの低さによるものかもしれないが。

 

○『テヅカイズデッド』は、てっきりニーチェの有名な「神は死んだ」からの引用かと思ったら、懐かしのロックバンド『ザ・スミスのナンバーのもじり』だった。

 

※「マンガ」を「文学」や「小説」に、「マンガ評論」を「文芸評論」に置き換えても通じる部分が多々ある。


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