まっとうな日本語のまっとうな小説

 

 

『もののたはむれ』松浦寿輝著を読む。

 

対談集『存在の絶えられないサルサ』(何回見ても、醜悪なタイトルだが)の中で、村上龍柄谷行人の対談している章だったと記憶している。そこで、「日本文学の伝統は中上健次で途絶えてしまった」という発言があった。文学も、なんだか跡継ぎがいなくてすたれてしまう伝統工芸といっしょかいと思ってしまった。でも、まあ、確かにそうなんだろう。少なくとも、村上龍は違うよな。中上健次以降の作家は翻訳小説のような文体で、よくいえば世界文学的というのか。確かに分断されているような気がしてならない。

 

かつて桑原武夫が『第二芸術論』で、物議を醸した俳句―要するに俳句は二等芸術だと―に続いて、短歌、詩、そして小説までもが、読み手よりも書き手の方が量的に勝る市場になってしまったのではないだろうか。水商売といっしょで玄人の素人化、素人の玄人化。巧いけどつまらない文章と下手だけど面白い文章。さて、どちらを選びます。「文章」を「レビュー」と置き換えても良い。まあ、最後は、好みというのか、ジンと来るか来ないのかということになるのだが。

 

何が言いたいかというと、要するに、たまには、きちんとした、まっとうな日本語で書かれた小説らしい小説が読みたいのだ。しかも、古典ではなく、今の人で。で、やっと出会えた。それが、本書。魅力的な小説や評論を書くらしいことは、人づてで耳にしていた。そうこうしているうちに、芥川賞を受賞。ようやくページをめくることができた。

 

本書は、フランス文学者で詩人で映画評論家で、大学教授である作者の初の短篇集。全14篇。巧いのだ、美味いのだ。懐石料理のようにきっちり納まっている。端正である。ストーリーはバラしたくないので、どんなテイストなのか気に入ったものを取り上げ観念的に(?)紹介しよう。

 

『中二階』は、もろベルナルド・ベルトリッチを想像させる。千日手は、小沼丹もしくは小沼の師匠である井伏鱒二あたりを彷彿とさせる。『並木』は、都市の迷宮の話。カフカっぽいし、なぜか押井守的。『夕占』は、阿部昭あたりかなと。

 

作者は、散文の人だと思う。長い散文詩が短篇となり、その連なりが長篇になっていく。ひょっとして天の啓示により得た、一つのメタファー(暗喩)がそのまま表題になり、そのイメージを紡いでいくだけで話ができるのかもしれない。

 

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