のんしゃらんでいこう

 

 


『いつか王子駅で』堀江敏幸著を読む。

 

エッセイのような不思議な味わいの小説だ。長い文章なのだが、軽やか。主人公は、講師をしたり、翻訳、大家の孫娘の家庭教師などをしながら、のんしゃらんな暮らしをしている。気が向けば、格安で買い求めた中古自転車で遠乗りしたりと。

 

書かれている世界は、どちらかというと、詫び寂びっぽい。取り立ててこれといった大きな出来事は起きない。平凡な毎日なのだが、その中にだって凝視すれば、出来事は幾らでも転がっている。

 

彼は、定食屋兼居酒屋で印鑑職人と知合う。銭湯で出くわしたら職人には刺青が彫られてあった。本作の冒頭でそのことが書かれているが、独特の良い文体なんだなあ。主人公は、その職人への荷物を預かるが、職人は行方不明になってしまう。

 

ほかにも、行きつけの古書店の主人、大家など、東京の下町の人情が、淡々と描かれている。下町のオヤジというと一家言持つベランメエ口調のガラッパチという印象が強いが、本作に登場してくる人物は、大半が、穏やかで、素敵だ。意図的か意図的でないのかは知らないが、背広姿のサラリーマンって一人も登場していないような気がする。

 

読んでいて、上京したばかりの東京の街や人々を思い浮かべてしまった。買い物に行くと、いつもおまけをしてくれた八百屋のおじさん、鉄製の非常階段をカンカンと音をさせながら、おかずを一品差し入れてくれた階下の大家のおばさんなど…。まだ、コンビニなんてものは無く、正月は店という店はみんな休んじまっていた、あの頃。

 

主人公のほど良い隠遁感、厭世感、一歩引いた距離感の取り方に、親近感を抱いてしまった。

 

「なるほど『のりしろ』か。私に最も欠落しているのは、おそらく心の『のりしろ』だろう。他者のために、仲間のために、そして自分自身のために余白を取っておく気づかいと辛抱さが自分にはない」

 

この一文にすべてが集約されている。

 

作中に、荒川遊園がひょっとして出てくるのではないかと思ったら、的中した。子どもがまだ小さい頃、出かけたことがある。観覧車に乗って、帰りは、名物の都電もなかを買い、早稲田まで都電に揺られた。その日曜日は、大安だったのか、結婚式帰りの引き出物の入った紙袋を手にした姿の人を何人も目にした。

 

こりゃ、朗読にぴったりだと思い、試しに音読してみた。渡辺篤志調、森本レオ調。後者の真似の方が、しっくりきた。全然、似てないけど。


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