『廃屋の幽霊』福澤徹三著を読む。
ホラー小説というと、おぞましいものを、ついイメージしがちだが、それはホラーの部分であって、やはり、小説の部分がしっかりブンガクしていないと、物足りなさを感じてしまう。
下部構造のストーリーテリングやキャラ設定がどっしりしていて、上部構造のホラーが効いてくる。
欧米のホラー小説やホラー映画などのオカルトものは、キリスト教が、ある程度わかっていなければ、ほんとうの怖さを感じることはできないらしい。日本のものの方が、なんか陰湿で恐怖の質というのか肌合いが違うような気がする。
本作で初めて作者の書いたものに触れたのだが、なかなかのものでした。抑え気味の筆致は、読み終えてから怖さが、慄き(おののき)が、じわじわ来る。ああうまいなあという怖さ。
たぶん、テーマ的、素材的に、ふくらませれば、そこそこ長篇になりうるものもあったが、余分な枝葉を切り払って、それぞれの話が、きちっと過不足のない短篇に仕上がっているのは、お見事である。
ホラーテイストの純文学とでもいえばいいのだろうか。
この短篇集は、うらぶれた人物ばかりが主人公である。スポットライトを浴びて人生の表舞台を驀進中という人には、幽霊・妖怪の類は出にくくて、遠慮してしまうのかもしれない。
川柳ではないが「幽霊の正体見れば枯れ尾花」的なものは、この世の中に有象無象ある。そもそもイメージなんて勝手に第三者が抱くものだし、抱かせるものだし。
怖いもの見たさは、結構、重要な文学のモチベーションだと思う。それは文字で構築された、覗きからくりだったり、お化け屋敷だったり、見世物小屋だったりする。
だから「火の玉は、大気中のリンが自然発火したものです」とかいう説明を聞いても、心の底の底では、でも、火の玉はある、あってもいいなとぼくは思ってしまう。
本作の中にも、リストラされた中年サラリーマンが、新しい勤め口が見つからず、夫、父親のプライドがズタズタになり、精神に変調を来たし、幻覚にさいなまれるのだが、それを統合失調症の予兆と見るのか、ほんとに出た!と思うのか。
日常と非日常、此岸と彼岸、幸福と不幸は薄皮一枚で区切られているのだが、予期せぬ出来事で、いともたやすく破られてしまう。そのマージナルに、幽霊(と、いうのか科学的に説明できないもの)はいるのでは。
でも、何が一番怖いって、そりゃ、あなた、生身のごく普通の人間でしょうが。