「身体の欲望」が「生命のよろこび」を掠奪している

 

 

無痛文明論森岡正博著を読む。

 

痛みは麻酔で、寒さや暑さはエアコンディショナーで、糞便は水洗トイレで、死は病院で、死体は火葬場で、ゴミは所定の曜日・場所に置けば、いつの間にか清掃局が片づけてくれる。かように、現代は、「快適」「心地良い」「アメニティ」の類の言葉で構築された「無痛文明」社会である。

 

「苦しみ」や「つらさ」や哀しみ、不快なものは、ことごとく隠蔽され、あるいはスポイルされてきた。しかし、無痛文明を享受しているのは、いわゆる先進諸国の一握りの人々であり、―もちろん、ぼくも含まれているが―それを支えているのは、圧倒的な多数の人々の犠牲によるものである。

 

あたかも、洋上を渡る豪華な客船の推進力が、暗い船底で櫓を懸命に漕いでいるあまたの奴隷であるように、そう、思えてならない。

 

人間を道具と同じように、役に立たなくなったら切り捨てたり、強者−弱者、勝ち組−負け組という単純な対位法がまかり通っているのも、無痛文明が生んだデバイドの一つといえよう。

 

作者は、情け容赦なく無痛文明を糾弾する。さらに、現代人を蝕んでいる無痛文明病の症例をこと細かに説明し、治癒の仕方まで伝授している。しかし、この病はヘビードラッグや癌細胞のように、いや、それ以上に厄介。なぜなら、痛みよりも快楽を感じさせ、一度罹ると、治りにくく、禁断症状も猛烈に表われるからだ。

 

人間は「人工的環境のもとで」「自己家畜化してきた」。作者は物質社会の根底を成しているものを「身体の欲望」と呼んでいる。そしてこれが「人間自身から、『生命のよろこび』を奪っている」と。「生命のよろこび」とは、「達成感や高揚感」ではない。「外部からの誘導や教示ではなく、みずからの意志と必然性によって、みずから忠実に自己変容したときに、予期せぬ形でおとずれるものこそが『生命のよろこび』なのである」。エロスとアガペーの違いのようなものか。

 

また、この「生命のよろこび」を得るためには、「絶対孤独」を貫かなければならないと。要するに、愛なんて幻想で、絶対孤独であることをごまかすためのものだと。自己と他者の心が通じ合うなんてことは、あり得ない(ほんとは、みんな、そう思ってるんだけど)。「死にいたる病」ではないが、絶対孤独を確立できてこそ、自分の死への恐怖も克服でき、無痛文明を凌駕できると。ひょっとして、出家しろとでもいいたいのだろうか。

 

島田裕巳の『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』に引用されている村上春樹の言説を孫引きする。「(アメリカの連続爆弾犯)ユナ・ボマーは、高度管理社会に生きる人間は『自律的に目標を達成できるパワープロセスを破壊され、システムが押しつける他律的ワープロセス』に組み込まれている」。そうそういうことなんじゃないかな。

 

反駁の術は、いまのところ、ない。「あんたは、そんなことをするために、生まれてきたんじゃないだろう」と、作者から鋭い切っ先を突き立てられたような気分だ。この本は、森岡生命学の集大成であり、まさに、それは、精神の踏み絵である。

 

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