『国家とはなにか』萱野稔人を読む。
このところ、頭に浮かぶものが、突き詰めていくと、
「国家」という言葉にぶちあたって、そこから先へ進まない。
この本では、国家・権力・暴力・主権・資本主義など、
とらまえどころのないものについて、
先人の考察を反芻しながら、現況の解析を試みている。
引用、多めで。
「フーコーによれば、権力は人間の行為にはたらきかけるに対し、
暴力は人間の身体に直接はたらきかける」
「アーレントによれば、暴力と権力はまったく別のものであり、
両者は明確に区別されなければならない」
「自分と似ていると思われるものに降りかかる暴力は見えやすく、
同情や怒りを引きおこしやすいのに対し、あまり自分と似ていないと
思われるものに降りかかる暴力は「暴力」として知覚されにくい」
この「感覚」が「同朋意識」を萌芽させ、民族主義になる。
「国民国家とは、領土内の住民全体が国民へと生成することで国家の主体となるような
国家形態である」
「「領土国家」はさらに「人口国家」へと変容しなくてはならないのだ。ここでいう人口とは、住民全体がかたちづくる同質的な集合体のことである」
「同質的な集合体」。ここね。異質は、はねられる。
「増大する社会的矛盾によってひきおこさける「セキュリティーの低下」を理由に
最新テクノロジーへの需要を高め、それによって新資本が形成される分野を開拓していくという点に、全体主義的実現モデルの特徴は存しているのである」
「ナショナリズムはこの「セキュリティの低下」に対する反動として、国民的アイデンティティへの志向を活性化させる。つまり、生存共同体としての国民的な諸制度が機能不全となっていくなかで、誰が国民として国家の庇護をうけるべきかをそれは示そうとするのだ」
鋭い。まるで中国じゃん。いやいや、日本とて。
「国家は暴力の実践に先だって存在はしない。暴力が組織化され、集団的に行使されることのひとつの帰結として国家は存在している」
「(ホッブズによれば、)各人は他を圧倒するだけの暴力を単独ではもちあわせていない。そうした圧倒的な暴力が発揮されるためには、必然的に、よりおおくの人びとの諸力が組みあわされ、合成されなくてはならないのである」
人びとの暴力の合衆及びその延長線上に国家という形態が生まれる。ってことか。
「定理二十七 われわれは、われわれに似ているものがあると、それにたいしていかなる感情ももたないのに、それがある感情に動かされるのを想像される場合、ただそれだけで、それと似た感情に動かされる(スピノザ『エティカ』)」
作者のたとえをもっと極端にするなら、もし牛や豚、鶏のフォルムが人間に似ていたら、屠殺もためらうし、食用にはできないかもしれない。似ている=同朋幻想が、ときおり加速度的に蔓延しヒートアップする。たとえばワールドカップのサッカーの応援や領土問題で他国と軋轢があるとき。
「住民から租税というかたちで富をうばい、その富を暴力の組織化と蓄積のためにもちいるという国家の原型がここから生まれてくる。そこにあるのは、富を一方的に収奪することを根拠づけるような暴力の特定のレジームである」
ゆえに日本国憲法に国民の三大義務の一つとして定められている。
ちなみに・ 普通教育を受けさせる義務・勤労 の義務・納税の義務。
消費税のそもそもの目的が軍事費調達のための妙案だったと覚えているのだが。
「暴力の権利のうえに成り立っている主権的権力にとっては、住民の生などは元来どうでもよかった」
「これに対し、生-権力の特徴は「生きさせるか死の中へ廃棄する」という点にある。
つまりその権力は、死を要求することを通じて発揮されるのではなく、住民の身体や生命といった<生>を対象とし、その生の増強をめざして発揮される。」
生-権力とは「生を引き受けることを努めとした権力」であり、死ではなく「生に中心を置いた権力テクノロジー」なのである」
「生に中心を置いた権力テクノロジー」から脱却することを唱えているのが、
小泉義之の『病の哲学』であり、森岡正博の『無痛文明論』なのだろう。
「レイシズムはナショナリズムと内在的な関係をもつ」
「国民国家はみずからの形態そのものにおいて、出自にもとづいて人びとをアイデンティファイするレイシズムと暗黙の関係をむすんでいるのだ」作者は註でその具体例として「戸籍制度」を取り上げている。
日本人は「戸籍制度」に馴化させられているけど、マイナンバーカードには違和感を抱いているのか、いないのか。