「一人前の「人間」」ってなんだ

モダンのクールダウン



『モダンのクールダウン』稲葉振一郎著を読む。

 

いろいろ抜書きしたいところもあるが、文学関係は、割愛して、このあたりを、見つくろって。

 

「いわゆる「近代」とは、すべての人々を一人前の「人間」、「立派な人間」にしようという夢に取りつかれた時代である、ということになります。フランス革命前夜、カントはまさにこの夢を体現して「啓蒙とは、人間が自ら招いたものであるから、彼自身にその責めがある」と説き、「敢えて賢こかれ!」と人々を叱咤したわけですが、意地悪く言えば彼がこのように書けたのは、「君達はいくらでも、また何ごとについても意のままに論議せよ!ただし服従せよ!」と命じるフリードリヒ2世が統治していたからだと。

 

「一人前の「人間」」ってなんだ。著者はこう述べている。

 

「一人前の「人間」」とは職能があり、税金を納め、妻子がいて、家や地所などの財産があり、貯金もあって、一般常識をわきまえているということだとしたら、「一人前の「人間」」になることを拒否している「ポストモダン」人にそれを要求するのは、どうなのだろう。

 

国や自治体は、子育て支援に躍起になっているが、その前段階の独身者への結婚支援策をしなければ。それこそ非正規でも食っていける、同性でも結婚できるとか。

 

オルテガによれば、かつての支配階級、エリートの継承者をもって任じる今日のテクノクラートは、実際には視野狭窄をわずらい、専門分野の外に一歩出るとろくな判断能力も持たないくせに、自分はひとかどのものとうぬぼれて無反省に自足している「大衆人」、それこそ本書の論脈に従うならば「動物」にほかならない」

 

専門バカってヤツね。いっとき、よくゼネラリストよりもスペシャリストとか、いってたよね。まあ専門学校に入ってもらうための惹句なのかもしれないが。なんか大学も実学優先の専門学校化するようだが。

 

「分業が高度化する中で、人々は細分化された自分の仕事の遂行に手一杯で、分業のネットワークとしての全体社会のレヴェルで、物事がうまくいっているかどうか配慮する主体がいない―という難題を、市場を中心とする自己調整的なメカニズムが解決してくれる。―しかしこうした楽観は、マルクス以降の時代には強く疑われるようになりました」

 

この手の話になると喩えが決まってチャップリンの「モダンタイムス」になるが、
「オレは歯車になりたくねえ」じゃなくて「同じ歯車ならゾーリンゲン製の鋼の歯車になってやる」と宣言するのが、テクノクラートなのかな。

 

「人を動物扱いして無意味に酷使し、虐殺するのではなく、動物としてその快楽に奉仕し、効率的に使役する、という管理様式が、二〇世紀後半以降は徐々に洗練されてきている。」「そしてそのような権力にとっての象徴的・戦略的拠点というものがあるとすれば、それはフーコー的権力論における監獄や学校ではないのはもちろん、じつは強制収容所でもなく、むしろテーマパークこそがふさわしいのではないか、ということです」

 

この場合の「洗練」がどうも怖くて。

 

ディズニーランドのような刑務所と、刑務所のようなディズニーランド、どちらに行きたい?

 

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