見えるもの、見えないもの、見えてくるもの、見えなくなるもの

陽だまりの果て

『陽だまりの果て』大濱普美子著を読む。

 

光ではなく翳。太陽ではなく月。若さではなく老い。日常の中の非日常。それは特異体験ではなく、誰もが経験する体験。現(うつつ)と夢、健常と非健常の区切りはきちんと線引きできるように思えるが、その境界は実は曖昧。

作者の書かれた作品は、どこか懐かしいようだが、その記憶の糸を辿るとおぼろになっていく。令和とかいう時代になって、このような幻想譚が読めるとは。6篇を簡単に紹介しよう。

     
『ツメタガイの記憶』
傾聴ボランティアをしている主人公は、とある老人施設で老婆と知り合う。老婆はかつて女優だったという。ラム酒紅茶とジンジャークッキーを振る舞われる。
老婆の話を聞く。その話がどこまで本当でどこまでがつくり話なのか。自身でそう思い込んでいるふしもある。
老婆が話した子ども時代のテントウムシの供養。虫つながりで私の過去の扉が開く。家には息子がいる。小学校時代の夏休みの研究課題の昆虫採集。実は、標本はデパートで私が買ったものだった。彼はいわゆる引きこもりだったが、グレゴール・ザムザと違って在宅のまま学び、就職して、いまはIT関係の仕事をしている。突然、老婆が亡くなる。彼女からのプレゼントを渡したいと施設から連絡が入る。それは…。

 

『鼎ケ淵』
女の子「アタシ」の一人語り。だから、あえて平仮名が多い文章。アタシはデザイナーをしているお母さんの仕事が忙しいのでバスで山の中に住むおばさんの元へ。おばさんとはメモ帳の筆談で会話する。おいしいごはんやいい匂いのするヒノキ風呂に入ったり。翌朝、近所を冒険しに行く。『鼎ケ淵』という名前の大きな池に着く。物置で古い日記を見つける。秘密の日記のようだ。鼎ケ淵でマー君に会ったと書いてあった。鼎ケ淵に行くと桟橋に座っているアタシの指を握る小さな手。

 

『陽だまりの果て』
施設に入っている老女は気がつくと廊下の奥にできる陽だまりを見ていた。そしてたぶん途切れ途切れでありながらも過去の思い出が浮かび上がる。喜怒哀楽。過ぎていったさまざまな思い出。陽だまりの描写を読みながらふとヴァージニア・ウルフの『波』新訳版の方につながるなあとひとりごちる。

 

『骨の行方』
久美子はついていない人生を送っていた。長年勤めた会社では経営陣が変わって古参の社員は首切りに。彼女も濡れ衣をきせられ辞めることに。生来の引っ込み思案のため再就職も難しい。両親が亡くなり、自身も大病を患い入院、退院したら夫が失踪していた。必死に探したらいわゆる無縁仏になっていた。彼女のアパートには骨箱は3つ。そして行きつけのスーパーマーケットで万引きの嫌疑をかけられる。持ち物検査をして、シロとわかっても木で鼻をくくる店側の対応。その模様を見ていたパンチパーマのおじさんが店を一喝。それはカツラを被ったキヨという女性だった。おばちゃん二人のバディもの。対照的な二人。久美子はキヨの家に引っ越す。歩いて30分のパン屋で働くことになった。最後に骨箱がさらに増えるのだが。


『連れ合い徒然』
ツレアイは外国人。たぶん、ドイツ人。日本文化に興味があって、合羽橋の道具街で刀のような庖丁を手に入れて悦に入っている。このツレアイ、いいキャラなんだ。石」、「刃物」、「琥珀」。カルチャーギャップなどを描いた3篇の連作集。「琥珀」が作者らしいテイストの作品。

 

『バイオ・ロボ犬』
これ、SFっていってもいい。こういうテイストも書けるんだ。イラストレータである私は、家で子どもの頃から犬を飼っていた、といっても量産型のロボット犬だ。aiboよりも実際の犬に形態は似ているようだが。老化じゃなくて劣化、老朽化して壊れたペットたち。ロボット犬だろうが、亡くなる、死というものの哀しみは変わりなく、深いペットロスに襲われる。父親の葬儀で再会した従弟のミチル。彼が研究しているバイオ・ロボ犬を譲り受ける。バイオ・ロボ犬の寿命はロボット犬より圧倒的に短い。死んだら、体内のバクテリアによりあっという間に跡形もなく分解されてしまう。亡骸もない死を体験する。

 

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まず、これを読むべし。ぼくの書いたレビューなど読まなくても、直にページを捲ればいい。


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