IT革命がもたらすもの。デジタル時代に、哲学の<ものの見方>は機能するか

 

 

引越し準備で忙しいので昔書いたのを。

『デジタルを哲学する 時代のテンポに翻弄される<私>』黒崎政男著を読む。

 

「デジタル」と「哲学」、一見すると相反するもののように思えるし、最も遠いもののようにも思える。しかし、「デジタル技術の基礎となった二進法を確立した」のは、哲学者ライプニッツである。コンピュータのルーツをたどると哲学者パスカルが発明した「歯車式加算器」は避けて通ることはできない。

 

本書で作者は哲学とデジタル、テクノロジーとの接点を模索している。そもそもカント(数学や物理学にも精通していたとか)を研究していた作者は、AI(人工知能)を知り、繋がった!という天の啓示を受けたそうだ。人工知能、ロボット、クローンなど最先端のテクノロジーに対して、哲学の「ものの見方」をベースに作者がさまざまな問題を投げかけてくる。随分、科学畑から哲学へアプローチしているものを読んできたが、
哲学からハイテクを、ここまで書かれたものでフィットしたものは、勉強不足かもしれないが、ぼくにとっては初めてといってもいいだろう。

 

インターネットはISDNからADSL、光ファイバーへ。オーディオはレコードからCD、MDへ、そしてインターネットからMP3ファイルにダウンロード。情報のデジタル化は、めざましいスピードで進展していった。IT革命はバブルと帰したが、「デジタル革命情報そのものはブームを超えて確実に進行している」。

 

IT革命の本質を作者は「情報がデジタル化され、非=物質化、脱=物質化するという点」を挙げている。それはどういうことなのか。いままでぼくたちは「情報の容れ物」である本やCDを購入して情報を入手していたが、その「容れ物の値段が消滅する」ことを意味している。欲しかったのは、本ではなくエクリチュールである。CDではなく音楽である。「容れ物の値段が消滅する」ことは著作権がなくなることを意味する。

 

さらに作者は「重要なのはハードではなくソフトである」「コンテンツの充実こそ急務である」という考えを「愚である」と述べている。「重要なのはあるメディアが有する質料的特質に即した情報(ソフト)の追求である」と。異論はないが、それができないから苦肉の策として、あちこちからコンテンツを「移殖」してくるのだ。

 

インターネットの普及がもたらしたものの1つが「文章表現がカラオケ化」し、「誰もが著者となる時代」になってしまったこと。「プライベートとパブリックの境が溶け落ちる。さまざまな情報とともに、何億もの個人のとりとめもない思い、理解や誤解がネット上に溢れる」とリリカルに記述しているが、確かにインターネットは両刃の刃である。濾過されない情報は、真実なのか虚偽なのか見極めることができないのだから。

 

「IT革命により<近代そのもの>が根こそぎ破壊されていく過程を、我々はただ傍観していることになるのか。あるいは新たな<現代>が近代以後(ポストモダン)として現われてくることになるのだろうか」

 

この引用した箇所を、あなたはペシミスティックに受け止めるのか、それともオプティミスティックに受け止めるのか。いずれにしても、ドッグイヤーだのマウスイヤーといわれるほどアップテンポで変貌していくデジタル時代といわれるいま、改めて見えてくるものが、多い。

 

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