『心と他者』野矢茂樹を読む。
作者の初期の論考集で、ウィトゲンシュタインと師である大森荘蔵を(あえて)批判した本。
後期ウィトゲンシュタインのアスペクト論に端を発して、「幻覚」や「見誤り」の奥底にある「実在」、真実と虚偽、「痛み」を検証して、「他者と心の在りか」を問う。以下メモ。
「私は一つの顔をまじまじと見て、突然他の顔との類似に気づく。私は、それが変化してはいないことを見ている。にもかかわらず、それを別様に見ている。この経験を私は『アスペクトの把握』と呼ぶ」(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』より)
「われわれの世界了解は、単純な遠近法絵画のようではなく、むしろさまざまなアングルからの見え方を描き込んだキュビズム絵画のようであるべきと言うべきだろう」
この作者のフレーズには深く首肯するのみ。
「もし私が長年ロボットと人間らしい付き合いを続けたならばロボットに対しても恐らくこの態度をとるだろう。そのとき私にとってそのロボットは「人」なのであり、心も意識もある「人間」なのである。これはアニミズムと呼ばれていいし、むしろそう呼ばれるべきであろう。木石であろうと人間であろうとそれら自体としては心あるものでも心なきものでもない。私がそれらといかに交わりいかに暮らすかによってそれらは心あるものにも心なきものにもなるである」(大森荘蔵『流れとよどみ』より)
なんとなくチューリングテストやサールの『中国語の部屋』を連想した。
特に大森のアニミズムとしてのロボットというのは、
まさしくフェティッシュな人形愛ともいえ、なんか新しい扉を見つけた感じ。
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