飴玉はなめろ

西洋哲学史―近代から現代へ (岩波新書)

西洋哲学史―近代から現代へ (岩波新書)

『西洋哲学史 近代から現代へ』熊野純彦著を読む。
『西洋哲学史 古代から中世へ』の続編。
途切れ途切れに読んでいるので、せめて各章は一回で読みきりたい。
極めて魅力的だが、中身が濃いので、これぐらいがぼくにはちょうど良い。
で、ヘーゲルに瞠目させられた。と、大仰な書き方をしてしまうが、それでもいい。


同一性とは、じぶん自身と同一であるような区別である。区別は、とはいえただ、それが
同一性ではなく、絶対的な非同一性であるかぎりで、みずからと同一である。
非同一性が絶対的なものであるのは、けれどもそれが、じぶんとはことなるものを
いっさいふくんでおらず、ただじぶん自身だけをふくんでいる場合、つまり非同一性が
みずからとの同一性であるかぎりにおいてであるにすぎない。
 同一性は、かくて、じぶん自身にそくして絶対的な非同一性である。
(『論理学』第二巻28頁)


わかりにくいのだが、いいたいことは禿同。
ぼくはきみじゃない。でも、ぼくはきみでもある。
ぼくはきみでもあるのだが、やっぱり、ぼくはきみじゃない。
R.D.レインのようでもあり、エヴァンゲリオンのようでもある。
そういうことでイジメも戦争もDVも起きるのだ。串刺しにしてしまえるんだけど。

生の多数性が対立している。この多数性の一部分(この部分は生きているのだから、
それじしん無限の多様性である)は、その存在が、ひたすら合一しているという関係においてのみ
考察され、他の部分(これもまた無限な多様性である)は、その存在がたださきの部分から
分離しているという対立においてのみ考察される。[中略-作者による]生は合一や関係としてだけ
考えられてはならず、同時に対立として考えなければならない。生は対立と関係との結合である
と私が言うとき、この結合自身がふたたび分離されてしまって、結合は非結合に対立するであろうに、
と反論されることになる。生は結合と非結合との結合である、とでも私は言わなければならないだろう
(『初期神学論集』419 422頁)

これも頭が痛くなりそうなのだが、主旨はほぼ最初の引用と同じだろう。
この引用箇所のほうがより「かかわり」に踏み込んだ言及に思えてしまう。
家庭、社会、世界、「生の多数性が対立している」。そうなんだ。


なんか飴玉をじれったくなって途中で噛んだりしていないか。
飴玉は口の中に入れてゆっくりとなめてその甘みを味わうものなのに。


この本は飴玉本なので、ゆっくりしか読めない。
なめながらいろんなことを考えさせてくれる。
喩えは別に飴玉でなくてもいい、スルメでも。


昨夜、戻るとビジネス本のぼくが担当した分の大量のゲラがFAXで届いていた。
奥付にスタッフライターとして、ぼくの名前と紹介した友人の名前も記載されている。
チェックして明日の朝イチ戻し。