これは恋ではなくて、ただの痛み

 

江戸の恋 ―「粋」と「艶気」に生きる (集英社新書)
 

 

『江戸の恋 「粋」と「艶気」に生きる』田中優子著を読む。


江戸時代というと、あなたはどんな印象を抱いているだろう。作者は江戸時代の魅力や豊かさを著作の中で紹介してきた、いわば名うての江戸ナヴィゲーターである。

 

本作は「恋」というテーマで江戸について述べている。「恋は江戸文化への導き手。そして江戸文化は恋の入口だ」という宣言(と、ぼくには思える)からの章立てが素晴らしい。


「恋の手本」「初恋」「恋文」「恋人たちの場所」「恋と性」「心中」「男色」「めおと」「離縁」「りんきといさかい」「老い・死・恋」。


各章ごとに、様々な文献からのエッセンスを引用し、知識を傾け、江戸の恋を語っている。このようにいままで断片的に、あるいはうわっつらだけで知っていたことを-知らないことの方が圧倒的に多いのだが-再構築されるとまったく新しい世界が現前に展開される。


「「恋をしたい」と思うことは「苦しみたい」と思うことと同じであると、覚悟すべきだ」

最たる恋は、言わずと知れた片思いで、昨今ではストーカーが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)しているが、江戸時代は今よりも社会が閉鎖的ではなかったので、ストーカーなる者は存在していなかったそうだ。

下々は長屋住まいで、引きこもろうにも、そんな空間はなかったわけで。無論、好きな異性を追い回す人間は、いたとは思うが。


それよか、大店の娘が、出入りする若い庭師の見習いに一目惚れするが、決してそのことを打ち明けられずに、悶々とする。その挙げ句、女中に頼んで恋文をそっと手渡すなんて、甘酢っぱいよね。今なら、異性のメル友といったあたりかな。逢わぬが花なんだけど、でも、逢いたい…。ヤマアラシ症候群のようなジレンマ。


「基本的に人間は恋をしたいのであって、セックスだけをしたいわけではない。性だけの世界は貧しく、恋の世界は贅沢なのである」「恋とは想像力の出来事である」

 

生物学的にピークを過ぎたぼくには痛いほどわかるが、さて、いまどきの若衆は、聴く耳を持つのであろうか。


「江戸時代では、恋愛と結婚は基本的に別のものである。恋愛が好きな人を「浮気者」とか「艶気者(うわきもの)」といった。浮気というのは本気の対立語ではなく実質(現実)の反対語なのだ」つまり、それは西鶴の『世間胸算用』を引きながら「結婚は生きるためにするものだ。生きるために必要がなければしないほうがいい」と。


随所に作者の体験に基づく恋愛私観が述べられており、妙に生っぽく、こちらも時にはかなり大胆。たとえば、こんなとこ。作者は見ず知らずの男性と「性関係だけを持ちたい。と、思うことがある」それは恋ではなくて、「愛がほしくて性交を繰り返す10代の女の子たちにも、似たところがあるのだろう。また、遊郭に出入りする江戸の男たちにも、同じ夢があったのだろう。性はそのように、社会的人間を一時的にでも脱ぎたい人間たちの、わがままな夢が託される場なのである」

 

今宵限りの出会い、束の間の逢瀬だから退き際もきれいにしたい。野暮は言いっこなしよ、おまいさん、チントンシャン。うーん、アバンチュリエールの神髄!


読み終えると、はるか遠くに思っていた江戸時代、そこに生きていた人々の暮らしぶりが見えてくる。それこそサブタイトルの「粋」や「艶気(うわき)」が。今よりもよっぽど素敵で、なぜか嫉妬さえ覚えてしまった。


昔、書いたレビューから。

 

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