「捨ててやった、クロードを」―街でいちばんのかしましい女

 

 

『アフター・クロード』アイリス・オーウェンス著 渡辺佐智江訳を読む。ジャケ買いならぬ装幀買いで。

 

「捨ててやった、クロードを。あのフランス人のドブネズミ。あんなやつに入れ込んで半年も無駄にするなんてどうかしていた」

 

素晴らしい書き出し。最後までこの調子。名訳。翻訳大賞有力!!(かも)。

 

でも、実際、クロードのアパートに転がり込んでいたのは、彼女・ハリエットの方。
クロードからの手切れ金で食料品などを買ったり。しまいには、鍵屋を読んで

鍵を勝手に変えたり。じたばたぶりや往生際の悪さは相当なもん。
自己チューぶりは呆れるを通過してあっぱれとも思える。

 

自ら身を引くとかこっそり男の行方を見守るとかまるっきり無縁。

 

灼熱のニューヨークで宿無しは、辛い。
必死に次の寝るところ、次の男を物色する。

 

何せ刊行されたのが1973年。
カウンターカルチャーの全盛期。
セックス、ドラッグ、ロックンロール(ロック)アーンド、カルト。

 

当時のアメリカは泥沼状態のベトナム戦争で疲弊し、ウーマンズリブも絶好調。
若島正の解説ではクエンティン・タランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でのマンソン・ファミリーに惨殺された女優「シャロン・テート事件」を象徴として紹介している。あ、作者の解説もグッドです。

 

ページを開くたびにそんな時代の空気を感じる。

 

ハリエットがおそらくカルト集団と接する。
新たな男?教祖のようなカリスマ男・ロジャーとホテル(チェルシーホテルがモデルらしいが)で共にするが、その変態プレイは場末の映画館でかかるポルノ映画そのもの。

 

昨今流行のフェミニズム小説の先駆けかって?
そうかもしれないが、パンクで破天荒。

スタンダップコメディのように笑えて、痛快でもある。
そうさな、女性版ブコウスキーとかってのは、どうだろう。

 

まったく内容は似ていないが、女性の赤裸々な語りということでエリカ・ジョングの『飛ぶのが怖い』を思いだした。同じく1973年アメリカで刊行された本。こちらはベストセラーだったが。


人気blogランキング

 

もう最後の最後まで頭がグルグル

 

 

『第四の扉』ポール・アルテ著 平岡敦訳を読む。

 

作者に関する何の知識も与えずに、いきなり、ゲラかなんかで本作の部分を

読まされたら、昔に書かれたゴースト・ストーリーとかミステリと思うだろう。

 

ダーンリー夫人が屋敷で謎の自殺をした。
有能なビジネスマンだった夫ダーンリー氏は、ショックの余り、

ひきこもり状態となる。
屋敷の部屋を貸し出すが、借り手がすぐに立ち退く。
屋敷には幽霊が出ると噂される。
ダーンリー夫人の息子ジョンの友人であるジェイムズやヘンリーは、何かと気遣う。
新たな間借り人ラティマ―夫妻は霊能者。一同を集めて降霊会を開くが。

すると今度はヘンリーの父親である作家のアーサーが襲われる。ヘンリーも行方不明。

どこまで呪われているのだろう、事件は終わることがない。
死体らしきものを担いだ男など怪しげな情報が飛び交う。

 

ジェイムズはロンドン警視庁の警部ドルーに捜査を依頼する。
名探偵ばりの独創的な推理をするのだが。

 

ヘンリーが消えてから3年後、ダーンリー夫人は自殺ではなく、

他殺だとパトリック・ラティマ―が言い出す。密室殺人か。

ジェイムズたちは再検証する。ダーンリー夫人が亡くなった部屋に男の死体が。

ヘンリー?


再びドルー主任警部参上。「心理学者」と呼ばれる彼の推理なのだが。

そこへ殺されたと思われたヘンリーが現れる。

殺されたのは、彼の「相棒ボブ・ファー」だと言う。
ドルーは、ヘンリーと「脱出芸の王」フーディニーの心理の類似性を取り上げる。

なぜ?とまあ「謎が謎呼ぶ殺人事件」(by「林檎殺人事件」作詞:阿久悠)。

 

さらに、さらに、その部屋に二体の死体が。誰?犯人は一体誰?

 

作者は「幕間」を設けてメタフィクションする。この小説の作者と「犯罪学の大家」ツイスト博士との『第四の扉』の書かれる経緯や経過を語っている。

 

んで、やはり、「最後の一行」。真っ逆さまに落とされる。

ネタバレになるんで書けないが。もう最後の最後まで頭がグルグル。

謎解き、謎明かしに徹頭徹尾こだわった

ネオゴシックホラー風味の「新本格ミステリ」。

 

人気blogランキング

作者いうところの「マルクス主義の遺産鑑定とその継承」って実際、どーよ?

 

 

高校のとき、文芸誌で小林多喜二の虐殺写真が掲載されていた。
蟹工船』以下プロレタリアアート文学は、当局に発禁、
その挙句に殲滅させられるほど、恐ろしい小説なのだなと勝手に思っていた。

ふと、手にして読んでみたら、いまでいうところのルポ、ノンフィンクションタッチの
小説で、どうということもなかった。なんか呆気にとられてしまった。

 

徳永直の『太陽のない街』も、飛ばし読みしてみたが、
やはり似たような読後感だった。
その舞台となった印刷会社と後年、仕事をするとは夢にも思わなかった。
老朽化した、よくいえばクラシックなビルのエレベーターは、
実にのんびりと昇降していた。

 

何がいいたいのかって。
稲葉振一郎の『「資本」論-取引する身体/取引される身体』を読んでみて、
マルクス主義は、オールドファッション化したのか、どうかってことと
作者いうところの「マルクス主義の遺産鑑定とその継承」って実際、どーよ?と、
ふと、頭をよぎったから。

 

マルクスだと資本家と労働者の二項対立図式で、
「資本主義の下で民衆、労働者たちは「疎外された労働」を強いられている。労働の成果、生産物は基本的には資本家のものとされ、労働という行為それ自体も資本家の指揮下に行われる」

 

マルクスはいう。
「労働者は「労働力」を自由にしてはいるが「労働」を自由にはしていない」

 

なんだけど、後にいわゆるホワイトカラー層が勃興して、単純な二項対立図式は成立しなくなったと、作者は述べている。

 

「「労働力=人的資本」は単なる欺瞞ではない」

「更に極論すれば、人を「剥き出しの生」として、快楽と生存を直接追求する
存在としてではなく、財産の権の主体として、つまり所有している財産を守り、資産を
活用する(ことを通じて間接的に生を追求する)存在として扱う、ということです」

 

エピローグの「法人、ロボット、サイボーグ-資本主義の未来」、
ひょっとして作者はこのパートを書くために延々と長い晦渋な枕を述べてきたのかもしれない。

 

搾取、疎外、無産者だのそんな言葉とともに、
マルクス主義(のようなもの)が、リヴィアサンとなって甦るかもしれない。


人気blogランキング

ただ、あまりにも心の中が空虚なのだ

 

『幽霊』チョン・ヨンジュン著 浅田絵美訳を読む。

読み出したら、すぐに止まらなくなった。
ページ数もそんなにあるわけではないので
すぐに読了してしまった。

 

政府高官など全部で12人を殺した死刑囚・474番が主人公。

彼は動機や生い立ちなど一切黙秘を貫いて
挙句の果てに自ら死刑を申し出た。

男に身寄りはいないはずだが、姉という女が執拗に面会に来る。

面会を拒んでいた彼だが、その女性と面会することで
氷のような心が溶解しはじめる。

刑務官のユンは、そんな彼が気になる。

 

教育や親などの愛情を知らないで育った彼。
唯一の存在が姉だった。
でも、面会者は本当に姉なのだろうか。

 

彼は死刑を取り下げることを望むようになった。
改悛や反省の気持ちが芽生えたのか。
矯正プログラムを受けることに。

 

ところが、彼を口撃して足蹴にした刑務所長を結果、半殺しにしてしまう。
過剰防衛というか、本能なんだろう。

 

彼は生まれついて痛みを感じない「先天性無痛覚症」。

ロシア船で働いていたとき、真冬の氷の海をロシア人たちがウオカをがぶ飲みして、

寒中水泳を楽しんでいた。彼は、誰よりも長く氷の海に浸かることができた。

何せ、寒さや痛みを感じないのだから。
ついたあだ名が「幽霊」。

 

大量殺人、快楽殺人。サイコパスは心の病とされている。
当初、身の回りにいる小動物を殺害するが、
それでは我慢できなくなって最終的には人間を殺めるというが。
その流れに男もあるのだが。

 

罪の意識のない者を法で裁けるのか。という素朴な疑問が頭をもたげた。
ただ、あまりにも心の中が空虚なのだ。

 

死刑囚・474番は、痛みを感じないばかりか、感じる心もないのか。
そうは思えない、思いたくないのだが。

矯正には時間がかかる。できないかもしれない。
でも、死刑執行までに残された時間は余りにも僅かだ。

 

映画よりも演劇で見たいと、ふと思った。小劇場で。

 

人気blogランキング

『居残り佐平次』が川島雄三の『幕末太陽伝』のネタもとであったとは

 

 

志ん朝の『居残り佐平次』をCDで聴く。
江戸弁の語りの小気味よさ、テンポの良さに引き込まれて、
品川の遊郭にタイムスリップしてしまった。
この噺が、川島雄三の『幕末太陽伝』のネタもとであることは、つゆ知らず。

 

郭にすかんぴんで居座り続け、持ち前の要領の良さや機転で、
女郎やしまいには主人にまで気に入られるあたりは、
植木等の『無責任男』シリーズに通じるものがある。
『幕末太陽伝』では、佐平次はフランキー堺が演じていた。
大の落語好きで知られる彼の妙にエネルギッシュな演技が光っていた。


川島監督はオチとして佐平次が、結核か肺病に冒されていて余命いくばくもないことを
知らしめていた。同郷の作家太宰治にならえば、コメディとトラジティは裏表。
底抜けの明るさの中にある自己への不安、世紀末という時代の不安を物語っていた。

 

小林信彦の『日本の喜劇人』によると、この映画はB級というか添え物だったらしい。
フランキー自身も後々、評判をとるとは思ってなかったようだ。
適度に肩の力を抜いてラクに演じている、
それが飄々としたキャラに拍車をかけることになった。

 

もちろん志ん朝のできも素晴らしい。
志ん朝といえば、四谷三丁目にある高級ふりかけのCMにずうっと出演していた。
二十代中ごろ、その店の前を何度も通っていた。勤めていた会社がそばにあったので。

youtubeにあった!お時間のある人はぜひ!

 


  

 

 

人気blogランキング

ふしぎなはなし

 

 

『密室殺人ありがとう-ミステリ短篇傑作選-』田中小実昌著 日下三蔵編を読む。

 

かつて中間雑誌に掲載されたミステリをピックアップした未書籍化ミステリ短篇集。
作者は、作家になる前、翻訳家でレイモンド・チャンドラーやカーター・ブラウンなどを訳していた。ハードボイルドな文体とは、うって変わって軽みのある奇妙なはなし(by乱歩)が読める。時には、コミカル。時には、エロチック。

作品によっては、村上春樹くりそつな乾いた文体に思えてくる。

 

主人公はかつて米軍の施設で働いて、いまはミステリの翻訳などをしている。
金はないが、毎日酒場で飲んで、そこの女性ともなんか関係があったりして。
って、作者の分身だろう。


『金魚が死んだ』の中で、ミステリについて作者の考えを登場人物に語らせている。
二か所引用。

 

エドガー・アラン・ポーがあらわれて、探偵小説がはじまるまでは、そういった分野では、ミステリが主流でというより、ふしぎなはなし、(ミステリ)」

 

推理小説、ミステリでは、じつは犯行の動機がいちばんだいじだと言われている。意外な犯人はけっこうだが、その犯人が、どうしてそういう犯行をしたか、その犯人が、どうしてそういう犯行をしたか、動機がしっかりしないと、読者はだまされた気持ちになる」

 

ぼくはミステリよりも「ふしぎなはなし」の方が好きなので、
最後に私立探偵や刑事や精神分析医などが自慢たらたらに動機や因果関係などを明かされなくても一向にかまわない。

 

何篇かはなしのさわりを紹介。

 

『りっぱな動機』
自称画家のぼくは、ウシと呼ばれている。ある日、1万円を拾って気が大きくなってはじめて新宿のキャバレーに入った。料金を払おうとしたら、拾った一万円札が見つからない。ウシは、支配人トラから飲み代の代償に妻クマの殺人を依頼される。ところが、ウシはクマに一目ぼれする。幸いにもトラが亡くなってウシとクマは夫婦になるが…。

 

『死体(しにたい)の女』
広島の中学で同級生だったぼくと根本。根本から寝た女性は、いい女だが死体(しにたい)の女、マグロ女子だったと聞く。新宿のバーのママに会いに行くと、知っていた女性・千佐だった。彼女はぼくが紹介して友人反野の愛人になっていたはずだが。彼女がなぜか反野の秘書の戸川を殺したらしい。

 

『なぜ門田氏はトマトのような色になったのか』
旧制高校での年上の同級生だった門田。出世して経営のトップになった。しがない翻訳家のぼくは偶然、彼と再会する。彼には他人に言えない秘密があった。花園で懇意にしていた女の子が陸橋から身を投げた。死んだと思っていた女性が呑み屋にいた。生きていた。咄嗟に顔色がトマトのような色になる門田氏。

 

『バカな殺されかた』
米軍の病院で知り合い、かつて翻訳仲間だった月川旦が殺された。なぜ毒入りチョコレートを食べて死んだのか。彼は結婚していることを隠していた。なのに、違う女性にプロポーズした。既婚者であることを知った彼女。怒りの余り。


『密室殺人ありがとう』
新宿・花園の狭いスナックでアルバイトをしているモチ子が殺された。色が白くてモチモチしているから、モチ子。よりによって密室殺人とは。あれこれ推理するぼく。ところが、モチ子は生きていた。喜びの余り、抱きしめてベッドイン。

 

『板敷川の湯宿』
東京の灼熱地獄から逃げ出して目的もなく田舎へ。板敷川沿いのひなびた温泉宿に泊まる。旅館にあるバーで飲んでいた。訳ありカップルが先客でいた。そこへしろいワンピースの女が入って来た。バーは看板となり、宿に戻ると、その女性がぼくのもとに。
三十路前のいい女。抱くと驚くほど冷たい感触。その女性の正体は。珍しくホラー感がたっぷりの作品。


人気blogランキング

めでたさも中くらいなりおらが春by一茶

 

 

6時の鐘で目を覚ます。
徳利と猪口が段ボール住まいなので
コップでチンした純米酒を3杯呑む。


午後、仮住まい宅から浄光寺、豪徳寺へ歩いて初詣。
豪徳寺、賑わっていた。

 

録画しておいた『流れる』成瀬巳喜男監督を見る。

 

幸田文の原作は、理由あって向島の芸者の置屋で住み込みするようになった
女中の目を通して、花柳界、下町の暮らし、人情、機微などを描いていたが、
映画のほうは女中(田中絹代)、置屋の女将(山田五十鈴)や
その娘(高峰秀子)、年増芸者(杉村春子)や若手の芸者(岡田茉莉子→萌え~)など、
一種の群像劇、やはり女性映画に仕上げられている。

若かりし仲谷昇がインテリ・ハンサム。

 

ぼくは田舎の人間なので下町でも大川の手前と川向こうで、
どのようにクラスターが違うのかは実感として知らないけれど、
ここらあたりの老舗の和菓子屋の跡継ぎに生まれた小林信彦は、
この映画のリアリティや人生の苦さを著作で誉めていた。

 

玄人-素人、下町-山の手、男に依存する-男から自立する、若さ-老い、
ドラマのファンダメンタルな要素である対立の構造を、
下町情緒で巧みに糖衣している。

 

日常的な題材をすくい上げて、見る者に共感させていく、
この手法はTVのホームドラマの原型ともいえるだろう。

 

前に幸田文向田邦子と、当ブログで書いたことがあるが、
女中がキーとなるドラマといえば、久世光彦演出作品でおなじみだ。

先日、たまたまTBS50周年記念番組を見ていたら、
『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『ムー一族』など
久世ドラマを紹介するコーナーがあったけど、
成瀬巳喜男久世光彦かと。

 

成瀬巳喜男の設計―美術監督は回想する』中古 智 著  蓮實 重彦 著を
読んだことがあるが、脚本家泣かせの監督だったとか。
何せできあがった台本を渡すと、監督チェックの段階で
セリフがばっさり削られていたそうだ。映画は見ればわかる。

 

ついでにいうなら、ムダにフィルムは回さなかったそうだ。
こりゃプロデューサーにとっては理想的な監督だ。
カットを断続的に撮影していき、
どんなものになるんだといぶかしがったりするが、
いざ編集してみると、見事な本編になっている。
職人といわれるゆえん。

 

サンマのワタといっしょで、子どものときは好きじゃないが、
ある程度年齢を経ると、そのうまさがわかる。そんな感じの作品。


人気blogランキング