作者いうところの「マルクス主義の遺産鑑定とその継承」って実際、どーよ?

 

 

高校のとき、文芸誌で小林多喜二の虐殺写真が掲載されていた。
蟹工船』以下プロレタリアアート文学は、当局に発禁、
その挙句に殲滅させられるほど、恐ろしい小説なのだなと勝手に思っていた。

ふと、手にして読んでみたら、いまでいうところのルポ、ノンフィンクションタッチの
小説で、どうということもなかった。なんか呆気にとられてしまった。

 

徳永直の『太陽のない街』も、飛ばし読みしてみたが、
やはり似たような読後感だった。
その舞台となった印刷会社と後年、仕事をするとは夢にも思わなかった。
老朽化した、よくいえばクラシックなビルのエレベーターは、
実にのんびりと昇降していた。

 

何がいいたいのかって。
稲葉振一郎の『「資本」論-取引する身体/取引される身体』を読んでみて、
マルクス主義は、オールドファッション化したのか、どうかってことと
作者いうところの「マルクス主義の遺産鑑定とその継承」って実際、どーよ?と、
ふと、頭をよぎったから。

 

マルクスだと資本家と労働者の二項対立図式で、
「資本主義の下で民衆、労働者たちは「疎外された労働」を強いられている。労働の成果、生産物は基本的には資本家のものとされ、労働という行為それ自体も資本家の指揮下に行われる」

 

マルクスはいう。
「労働者は「労働力」を自由にしてはいるが「労働」を自由にはしていない」

 

なんだけど、後にいわゆるホワイトカラー層が勃興して、単純な二項対立図式は成立しなくなったと、作者は述べている。

 

「「労働力=人的資本」は単なる欺瞞ではない」

「更に極論すれば、人を「剥き出しの生」として、快楽と生存を直接追求する
存在としてではなく、財産の権の主体として、つまり所有している財産を守り、資産を
活用する(ことを通じて間接的に生を追求する)存在として扱う、ということです」

 

エピローグの「法人、ロボット、サイボーグ-資本主義の未来」、
ひょっとして作者はこのパートを書くために延々と長い晦渋な枕を述べてきたのかもしれない。

 

搾取、疎外、無産者だのそんな言葉とともに、
マルクス主義(のようなもの)が、リヴィアサンとなって甦るかもしれない。


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