『資本論』の逆襲

柄にもなくマルクスマルクス兄弟じゃないよ、ヘイ、ブラザー。
 
現代思想4月臨時増刊マルクス」より、最もひかれた論文から一部を引用してみる。
 
景気循環のたびに資本の緩衝装置として遣い捨てられ、技術的な熟達を遂げることすらできない潜在的失業者をマルクスは産業予備軍と呼んだ。今それは、日本でフリーターと「翻訳」され、その数は500万人になんなんとしている。マルクスは「自由」であると同時に職場から「遊離」し、「無一物」な存在であるという多重的な意味でフライ(自由)な労働者を資本制社会の存立用件とみなした。現在の日本のフリーターは、戦後世代と団塊の世代が高度成長期に蓄積した富をとり崩しながら当面の危機を回避している。しかしフリーという訳語が持つもう一つ別な意味、すなわち生活基盤からの遊離と乖離が一斉に顕在化する日はゆっくりと、しかし確実に近づきつつある。
 
スターリニズムと冷戦期に予防措置、対抗措置として西側社会で整備された所得の再配分機構や社会保障制度は、ポスト冷戦期のグローバルな資本の競争の中で次第に維持困難となっている。その中で『資本論』の中の工場労働者たちの証言は新たなリアリティを獲得しつつあり、経済理論としての破綻をもってこの書物を葬ることを困難にしている。」(「翻訳としての『資本論』」鈴木 直)
 
東欧、ソ連以下共産主義国家が次々と崩落したが、いざ、資本主義国家となってみたとて「ワシらの暮らしは楽にならねえだ」「んだ、んだ」「ソ連や東独時代の方が医療費はタダだし、並べば決してうまくはないけど食べ物にはありつけた」「あとは焼酎(ウオトカ)をあおるだけ」とかグチる高齢者。
 
クラシック音楽は、演奏家によって新しい解釈が試みられるが、でなきゃ、つまらない。それと同じことが古典の翻訳にもいえる。もちろん肝心のテキストに魅力がなければの話だが。どうやら『資本論』には、それがあるらしいと。新訳で読んでみることにしよう。って、あるのか。「工場労働者たちの証言」って気になる。そこだけ拾い読みしてもいい。
 
共産党宣言』をモテようと読んだけど、全然覚えてないぐらいだから。第一、どこまで理解できたかさえも覚えていない。カブレてないから、新鮮だと思う。もう不惑なんてとっくにオーバーエイジのフリーターの一人でもあるワシは思うのじゃよ。