ケアで文学を批評する、あ、映画もね

 

 

『世界文学をケアで読み解く』小川公代著を読む。

 

これまでケアについて書かれた本が理論編だとすると、この本は展開編、応用編ってとこかな。作者は内外の作品(小説から映画まで)からケアマークを認定してもいい作品を選択。その理由を挙げている。


読んだ本や見た映画もあるし、そうでないものもかなりある。作者のケアという切り口から見ると、そーか、そういうことだったんだと新しい気づきが得られる。


一般的なケアの捉え方は、いわば氷山の一角。海上に浮かんでいる部分。ところが、ケアは見えない海中に沈んでいる部分、その裾野の広いことったら。で、一般的なケアの捉え方についてウルフの一文を引用している。

 

「ウルフは、「病気になるということ」というエッセイで、心身ともに健康な人が上から目線で弱者をまなざす態度を「直立人」のものとして糾弾した。モリスンの言葉でいうと「権利を有する人たち」の典型的な態度ということもできるだろう。ウルフは横に臥すもの、すなわち「横臥する者たち」、あるいは「疎外された人々」にこそ豊かな想像世界が広がっていると考えていた。病気になったり、脆弱になったりすると、景色が違って見えるという意味でもある」

 

上から目線のケアを批判しているが、その通りだと思う。

 

ケア映画として『ドライブ・マイ・カー』を取り上げている。村上春樹の短篇小説とチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』を、ヒップホップでいうところのマッシュアップした作品。主人公の家福はまさに、「横臥する者たち」の一人となって恢復していく。

 

ハン・ガンの作品に惹かれるのもそのあたりにある。

 

カール・マルクスマックス・ヴェーバーミシェル・フーコー、この3人がケアで繋がるというのも意外だった。

 

「何が有用で、何が有用ではないという基準が「資本」や「経済」に縮約されてしまう状況に疑問を投げかけてきた思想家はこれまでにもいた。カール・マルクスマックス・ヴェーバー、そしてミシェル・フーコーである。育児、介護、看護などのケアは尊い営為である。しかし、資本主義社会において、家庭内の労働と見なされるケアは、経済的な価値によって評価されない」


それからうっかり、ぼくは読み落としていたが、ネガティブ・ケイパビリティという言葉の重要性。

「男性でありながら、女性的な精神を備えている文豪たちのなかにイギリスのロマン派詩人ジョン・キーツがいる。「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念で知られるキーツは、ウルフにとって「両性具有的」であった。これは、「短期に事実や理由を手に入れようとはせず、不確かさや、神秘的なこと、疑惑ある状態のなかに人が留まることができるときに表れる能力」を意味する。「とにかくその種の混合」、つまり両性具有的な混合がなければ、「知性ばかりが支配的になり、心の他の能力は硬化して不毛になる」とウルフは語っている」


ケア映画の一例として『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を紹介している。去年の12月、妻子がコロナ陽性になって、濃厚接触者のぼくは、勤めを休んで、家事やら洗濯やら買い出しやら猫の世話やら、ヤングならぬオールドケアラーになった。そんなとき、アマゾンプライムで見た。

 

マチスモが支配する国って、まさにマーガレット・アドウッドの『侍女の物語』の世界。しかし、完全にそれが行き詰って袋小路(cul-de-sac)状態。それを打破しようと立ち上がった女性たち。

 

読みたい本がまたまた増えてしまった。

 

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